【差別を受ける側の恐怖】
差別的な言動に対して、反差別の立場にあるマジョリティが「情けない」「恥ずかしい」「愚かだ」「悲しい」と批判することがある。
その批判自体は間違っていない。
批判の声は上がるべき。
しかし、被差別当事者にとって、それらの言葉はあまりに軽く響くことがある。
正直、そんな軽いものではないのだ。
差別は、自分や家族の存在の安全を根底から脅かすもの。
それを行う加害者に、「情けない」とか「悲しい」は妥当なのか?
黒人作家ジェームズ・ボールドウィンは、ナチスによるユダヤ人迫害をめぐり、こう語った。
"The world’s indifference to it frightened me very much."
「それに対する世界の無関心が、私をひどく恐れさせた。」
彼が恐れたのは、迫害する者だけではない。
自分たちが組織的な殺害の標的となったとき、世界は同じように無関心なのではないか、ということだった。
タナハシ・コーツは、黒人として生きる現実を、
"how afraid we are for our bodies."
「私たちが、自分たちの身体についてどれほど恐れていることか。」
と語った。
恐怖は自分自身だけでなく、子どもや愛する人々の身体にも及ぶ。
フランツ・ファノンは、白人の子どもから、
"Mama, see the Negro! I’m frightened!"
「ママ、あの黒人を見て! 怖いよ!」
と指さされる場面を描いた。
人種差別は、他者の視線によって、自分の身体そのものが恐怖や排除の対象として定義される経験でもある。
オードリー・ロードは詩に記した。
"but when we are silent
we are still afraid"
「しかし、私たちが沈黙していても、なお恐れている。」
声を上げれば攻撃されるかもしれない。
しかし沈黙しても安全にはならない。
クラウディア・ランキンは、差別の苦痛を抱えながら生き続けることを、
"And yet you bear it. And yet you go on."
「それでも耐える。それでも生き続ける。」
と表現した。
これらの言葉は、黒人の人々だけのものではない。
差別の歴史や形態、危険の程度はそれぞれ異なるとしても、自分が生きる社会の中で差別の標的とされる人々が共有し得る、根源的な恐怖を表現している。
差別は単なる不快感や侮辱ではない。
人間が世界の中で安心して存在するための条件そのものを破壊するものなのである。
差別主義者を「情けない」と評する人は、その人間の品性を問題にしている。
しかし被差別者は、そのような人々の認識が社会に広がり、制度や暴力へと転化していく可能性の中で生きている。
そして恐ろしいのは、差別主義者だけではない。
自分の存在を脅かす言説が社会に広がっても、周囲の人々がそれを単なる愚かさや品性の問題として片づけてしまうこと。
その認識の隔たり自体が、恐怖を深めるのである。
差別を非難することと、差別される人間の生存の危機を理解することは、必ずしも同じではない。