以下は、ある大学で3年間にわたり行ってきた卒業設計講評の総括です。過去の講評と重複する部分もありますが、これから卒業設計に取り組む学生の皆さんにも参考にしていただければ幸いです。毎年、多くの大学や団体から卒業設計講評会にお招きいただいておりますが、なかなか伺えず、申し訳ありません。
資本主義が駆動する都市や権力への建築的アクセス、その諦念の蔓延については、再三述べてきた。都市の巨大再開発が席巻する時代に、卒業設計では、近代や新自由主義に見捨てられた場所における連帯や幸福のあり方ばかりが探られている。共同体がかつて担っていた連帯や相互扶助が弱まり、市場と国家の論理が優勢となるなかで、身近な場所に生きる意味を見出そうとする姿勢には切実さがある。しかし、過疎地・被災地・高齢者の住まいなどを対象とする設計が、ボランティア的な実践へと収斂していくことは気がかりだ。それが制度批判なき対症療法にとどまるとき、その切実さはかえって構造を温存してしまう。大学は社会変革を構想する場でもあるはずだ。極小の問題を扱うときこそ、極大の可能性を示してほしい。─《製材所存続計画》には、制度的提案を通して日本の森のあり方を変えうる可能性があった。
昨年、一昨年と、設計主体の隠蔽やプロセス偏重、全体性を欠いた作品は、随分減った。もちろん、「全体を引き受ける建築家」という像が資本と国家に要請されてきた幻想であることは事実だ。─中村賞とした《建築生態系理論》は、その設計主体を自然観察者へと置換する野心的な試みだった。しかし主体を疑うことと、設計主体として責任を負うことは別である。どんな未来を誰のために設計するのか。そこが問われた。
小さな物語に閉じたライトノベル的設計も、かなり少なくなった。建築は共同体・国家・宗教といった、人々が共に生きるための大きな物語を現前させ、そのリアリティを厳しく問われながら磨かれてきた。その公共性を忘れてはならないのだ。一方で今年は、誇大妄想的建築が新しい風を吹かせた。気候変動が深刻化した東京に都市スケールの大屋根を架ける《A Plan For Tokyo 2100 Climate Infrastructure》、地質学的時間を構法と質量に宿した《100,000年の建築》だ。壮大な構想であるほど、現在の社会や建築の前提をいかに問い直すのかが重要だ。誇大妄想も、現実を照射し、批判する意志がなければ、前述の小さな物語と同様に閉じてしまうだろう。
身近な問題に向き合うなら、そこから社会の仕組みを問い直してほしい。設計主体を疑うなら、それでもなお自らが設計する責任を引き受けてほしい。壮大な未来を描くなら、現実への批判を、新たな社会構想へと結実させてほしい。卒業設計とは、そうした批判と構想を、自らの責任において一つの建築として提示する、建築家人生最初の所信表明なのである。