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橋口紀美子@武雄市の未来を考える会|代表
@kimiha228
武雄市|📚 読書・歴史好き 武雄のこれまでとこれからを見つめ、小さな疑問から行動しています。市民目線で税金の使い道や地域課題に向き合い、見えないところで決まる政治を変えたい。元銀行員(内国為替・融資・外貨両替・外国為替取次担当)・元教員(14年間小学校勤務)。市民の声が届くまちを目指して発信中。
九州
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橋口紀美子@武雄市の未来を考える会|代表
@kimiha228
about 7 hours ago
🌱橋口きみこの一日一考 【今日の一言】 見聞 ― 世界を知ることは、未来をつくる力になる。 【今日の出来事】 今日は、山口尚芳の生涯で最も大きな舞台となる、岩倉使節団としての世界周遊と、帰国後に新しい日本の制度づくりへ尽力した歩みをたどりました。 【今日の学び】 明治4年(1871年)10月、山口尚芳は従四位に叙せられます。そしてこの直後、生涯最大の舞台が幕を開けました。 岩倉具視を特命全権大使とする岩倉使節団の全権副使に、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文と並んで任命されたのです。 使節団は明治4年(1871年)から明治6年(1873年)まで、約2年にわたり欧米12か国を歴訪しました。途中で一時帰国や早期帰国を余儀なくされた幹部もいましたが、大使・副使の首脳陣の中で全行程を務め上げたのは、岩倉具視と山口尚芳の二人だけだったとされています。 尚芳は、この旅に当時9歳だった長男・俊太郎を同行させました。俊太郎はそのまま英国に残って9年間学び、その後さらにアメリカで2年間学問を修めています。次代を担う子どもにも世界を見せようとした尚芳の姿勢からは、近代国家を築くためには国際的な視野が欠かせないという強い信念が伝わってきます。 帰国後、尚芳は制度づくりの中心で活躍します。明治8年(1875年)には創設間もない元老院の議官となり、明治13年(1880年)には元老院幹事、会社並組合条例審査総裁を歴任しました。翌明治14年(1881年)には、前年に設置された会計検査院の初代院長に就任します。 その後、明治十四年の政変を経て参事院議官となり、外務部長・軍事部長を兼任。さらに戒厳令や治外法権関連規則、徴兵令改正案など、近代国家の骨格となる法制度の整備にも携わりました。 世界で得た知見を、日本の制度へと生かす。その歩みは、表舞台で目立つことよりも、未来の国づくりを支えることに力を注いだ尚芳らしい生き方だったように思います。 次回は、生涯を国家に捧げた山口尚芳が、故郷・武雄にどのような足跡を残したのかをたどります。 🌱未来への種 世界へ学びに出ることは、知識を得るだけではありません。その経験を地域や国の未来へどう生かすかが、本当の学びなのだと山口尚芳は教えてくれます。 🌿今日育った種 世界に目を向けることで、未来への視野は大きく広がる。 写真:外務省本館 #橋口きみこの一日一考 #山口尚芳 #岩倉使節団 #歴史から学ぶ
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橋口紀美子@武雄市の未来を考える会|代表
@kimiha228
about 7 hours ago
🌱橋口きみこの一日一考 【今日の一言】 登用 ー 学びと努力は、やがて大きな使命へとつながる。 【今日の出来事】 今日は、明治政府の中枢で山口尚芳が担った役割をたどってみました。 【今日の学び】 明治維新後、尚芳はめまぐるしい早さで新政府の要職を歴任していきます。明治元年、外国事務局御用掛を皮切りに、判事、外国官判事、東京府判事、大蔵大丞と、外交・司法・財政という国家の根幹に関わる分野を次々と経験しました。明治3年5月には北海道開拓御用掛にも就いており、開拓という新しい国土づくりにも関わっています。 明治4年(1871年)8月、尚芳は外務省少輔に就任します。外務省でナンバー2にあたるこの職に、まだ30代前半の若さで就いたことは、致遠館でフルベッキに学んだ英語力と、幕末に培った国際感覚が高く評価された結果と言えるでしょう。 帰国後の政局では、尚芳は大久保利通・木戸孝允とともに遣韓使節派遣に反対の立場を取りました。武力による対外進出よりも、内政の充実を優先すべきだという判断は、岩倉使節団での見聞が背景にあったとも考えられる、現実的な国家観の表れだったのかもしれません。 そして明治7年(1874)2月、佐賀の乱が起きます。尚芳はまず、故郷武雄の元領主・鍋島茂昌や家臣たちを説諭し、反乱への呼応を抑えることに努めました。自らも2月12日に長崎入りし、海軍の警備兵を率いて大村・武雄を経由、3月1日には佐賀城に入城して鎮圧にあたります。乱の勢いに脅された武雄が、やむなく64名の兵を反乱軍に送ってしまった際には、茂昌が新政府に提出する謝罪文の添削にも力を尽くし、武雄が罪を免れるよう奔走しました。 外交官として、そして故郷を守る一人の武雄出身者として。中央政府での重責と、地元への責任感を同時に果たしていたのが、この時期の尚芳の姿でした。次回は、尚芳の生涯で最も大きな舞台となる、岩倉使節団としての世界周遊と、その後の制度・文物の調査を通じた関わりをたどります。 🌱未来への種 真に求められる人材とは、知識を持つだけではなく、その知識を社会のために生かせる人です。学びを積み重ねることが、未来への責任につながるのだと感じました。 🌿今日育った種 日々の学びと努力が、やがて国を支える力へと育っていく。 写真:国会議事堂 #橋口きみこの一日一考 #山口尚芳 #明治維新 #北海道開拓
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橋口紀美子@武雄市の未来を考える会|代表
@kimiha228
2 days ago
🌱橋口きみこの一日一考 今日の一言 人脈 ー 学びは、人を育て、時代を動かす。 【今日の出来事】 武雄での学びを土台に、山口尚芳が幕末の激動をどのように生きたのかをたどってみました。 【今日の学び】 長崎で蘭学や英学を学んだ尚芳は、知識を身につけるだけでなく、人とのつながりも広げていきました。 薩摩や長州の志士たちとの交流を深め、水面下で進められていた薩長連携にも力を尽くしたとされています。また、公家の岩倉具視にも接近し、佐賀という一地方にいながら、日本全体を動かす政治の中枢へと人脈を築いていきました。 慶応4年(1868年)の王政復古後、尚芳は新政府軍(東征軍)に従軍し、江戸開城の際には薩摩藩の小松帯刀らとともに江戸入りを果たします。 武雄で育まれた蘭学・英学の素養と、若くして築いた雄藩との人脈。この二つが結び付いたことで、尚芳は明治という新しい時代の舞台へ歩みを進めていきました。 なお、元治2年はわずか約4か月で終わっています。元治2年4月7日(新暦1865年5月1日)に改元され、その年のうちに「慶応元年」となりました。 次回は、いよいよ明治政府の中枢で山口尚芳が担うことになる役割をたどります。 🌱未来への種 知識は、学んだ瞬間に価値を持つのではなく、人との出会いや行動と結び付いたとき、未来を切り拓く力になります。学び続けることは、自分自身の可能性を広げることでもあるのだと感じました。 🌿今日育った種 武雄が育んだ「学びを尊ぶ気風」は、一人の青年を明治日本の中枢へと導きました。人を育てる環境は、時代を変える人材を生み出す土壌になる。そのことを改めて教えられた一日でした。 写真:佐賀城本丸歴史資料館 #橋口きみこの一日一考 #山口尚芳 #明治維新 #岩倉使節団
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橋口紀美子@武雄市の未来を考える会|代表
@kimiha228
3 days ago
🌱橋口きみこの一日一考 【今日の一言】 学びを支える土壌が、人を育て、未来を拓く。 【今日の出来事】 今日は、山口尚芳の才能をいち早く見抜いたとされる武雄領主・鍋島茂義との関わりや、その成長を支えた武雄の教育環境について調べました。 【今日の学び】 鍋島茂義は、23歳という若さで佐賀藩の請役に抜擢された人物です。天保年間には高島秋帆に師事し、蘭学や西洋砲術を武雄に根づかせるなど、近代化の礎を築きました。 武雄には、家臣の子弟を教育する機関として、享保年間(18世紀前半)頃に学問所「身教館」が開かれました。第23代領主・鍋島茂紀が構想し、第24代領主・鍋島茂正の時代に創設されたとされるこの学問所では、武家の子弟に学問が課され、和漢の学問はもちろん、後には洋学も学べる環境が整えられていきました。尚芳もまた、このような武雄の教育制度の中で育った一人です。 尚芳が生まれた武雄領の武雄鍋島家は、正確には独立した「藩」ではなく、佐賀藩における「親類同格」という家格に位置づけられていました。制度上、尚芳は佐賀藩士であり、その中でも武雄鍋島家に仕える家臣の家に生まれたという立場でした。 嘉永6年(1853年)頃、佐賀藩主・鍋島直正の命により、尚芳は他の藩士子弟とともに長崎へ遊学し、オランダ語を学び始めます。この長崎遊学は、有望な人材を育成するという佐賀藩の方針の一環であり、武雄鍋島家からも若者たちが送り出されていました。かつて茂義が家臣を高島秋帆のもとへ学ばせ、自らも学びに赴いた姿勢は、世代を超えて受け継がれていたと言えるでしょう。 一方で、茂義と尚芳が具体的にどのような場面で出会い、どのように才能を見いだしたのかについては、現時点で確認できる資料からは明らかになっていません。しかし、武雄という土地全体に「学ぶ者を後押しする」環境が整えられていたことは確かであり、尚芳もまた、その中で大きく成長した一人だったのです。 🌱未来への種 学びの環境は、一人の人生だけでなく、その先の時代までも変えていく力を持っています。人を育てる土壌を築くことこそ、未来への何よりの投資なのだと感じました。 🌿今日育った種 学びを支える環境が、未来の人材を育てる。 写真:旧領主鍋島家別邸庭園御船山 #橋口きみこの一日一考 #山口尚芳 #鍋島茂義 #身教館
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橋口紀美子@武雄市の未来を考える会|代表
@kimiha228
4 days ago
🌱 橋口きみこの一日一考 萌芽 ― 未来を変える人材は、学びの土壌から芽吹く。 【今日の出来事】 今日から、武雄が育てた人材の物語を紡いでいきます。 まずは、岩倉使節団の一員として世界を見た武雄出身の人物、山口尚芳の歩みをたどってみました。 【今日の学び】 山口尚芳は、天保10年5月11日(1839年6月21日)、武雄鍋島家の家臣・山口尚澄の子として生まれました。幼名は範蔵(はんぞう)です。 「尚芳」という名は、長らく「なおよし」と読まれるのが一般的でした。しかし、1995年に刊行された『勅奏任官履歴原書』(国立公文書館所蔵)の中に、本人が閲読して確認した経歴資料として「ますか」という読みが記されていることが分かり、近年ではこの読みも併記されるようになっています。 尚芳が生まれ育った頃の武雄は、決して地方の一領にとどまる存在ではありませんでした。第28代武雄領主・鍋島茂義が高島秋帆に学び、蘭学や西洋砲術を積極的に取り入れていた時代です。フェートン号事件を契機に芽生えた「学び」の気風は、武雄の人々の間に根づき、尚芳もそうした環境の中で成長していきました。 武雄鍋島家の一人の家臣の子として生まれた少年が、後に岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らとともに岩倉使節団に加わり、世界を見つめることになります。 その大きな歩みは、武雄という土地で育まれた学びの土壌から始まっていました。 次回は、尚芳の才能をいち早く見いだしたとされる武雄領主・鍋島茂義との関わりについて、たどっていきます。 🌱 未来への種 学びの土壌が、人を育て、地域を育て、やがて時代を動かす力になる。 🌿 今日育った種 世界へ羽ばたく力は、ふるさとで育まれた学びから生まれる。 写真: 山口尚芳肖像画 #橋口きみこの一日一考 #山口尚芳 #明治維新 #未来へつなぐ歴史
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橋口紀美子@武雄市の未来を考える会|代表
@kimiha228
5 days ago
🌱 橋口きみこの一日一考 【今日の一言】 英知 ― 学びを生かし、人を守る知恵が未来を切り拓く。 【今日の出来事】 今日は、武雄軍団が実際にどのような未来を切り拓いていったのか、そして明治維新後の武雄の人々の歩みについてたどってみました。 【今日の学び】 武力による道ではなく、対話と実利による道を選び続けた鍋島茂昌の姿勢は、フェートン号事件以降に培われた武雄の歩みを象徴しているように感じます。 西洋技術を積極的に取り入れながらも、それを政治的な野心のためではなく、地域と人々を守るために生かそうとした。その姿勢が、激動の幕末から明治という時代を武雄が歩み抜く大きな力になったのではないでしょうか。 歴史を振り返ると、未来を切り拓くのは、力そのものではなく、その力を何のために使うのかという志です。武雄の先人たちは、そのことを私たちに教えてくれているように思います。 このシリーズは今回で一区切りとなりますが、武雄が育てた人材の物語はまだ続きます。 次回からは、岩倉使節団の一員として世界を見つめ、近代日本の礎づくりに尽くした武雄出身の山口尚芳の歩みをたどっていきます。 🌱 未来への種 先人たちの志を知ることは、未来を担う私たちの新たな一歩につながる。 🌿 今日育った種 真の強さとは、人を守り、未来へつなぐために知恵を生かすこと。 写真: 鍋島茂昌公 #橋口きみこの一日一考 #明治維新と武雄 #鍋島茂昌 #未来へつなぐ歴史
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橋口紀美子@武雄市の未来を考える会|代表
@kimiha228
6 days ago
🌱 橋口きみこの一日一考 【今日の一言】 研鑽 ― 学びを積み重ね、磨き続けることが未来を切り拓く力となる。 【今日の出来事】 今日は、鍋島茂義によって培われた技術が、幕末の軍事組織としてどのような形を取っていったのかをたどってみました。 【今日の学び】 大砲づくりや理化学研究だけでなく、武雄は兵制そのものの近代化にも取り組んでいました。武雄鍋島家に伝わる資料群には、西洋砲術を核とした近代軍制の整備や、火器・銃砲・輸入機械の注文書、さらに奥羽出兵時の記録までが含まれており、装備から組織運営まで一貫した改革の跡がうかがえます。 その実務を支えたのが、長崎の商人・竹林祐作を通じた輸入ルートでした。武雄鍋島家は竹林を介して、イギリス商人オールトらから武器や火薬、軍事関連の書籍を取り寄せています。残された書状には、大砲隊の操練書や弾丸製造書、最新の戦術書など、できるだけ新しい版を求める具体的な依頼が記されており、武器だけでなく最新の軍事知識そのものを積極的に取り入れようとしていたことが分かります。また、元込め式のエンフィールド銃150挺を注文した記録も残されており、当時最先端の小銃の導入を目指していたことがうかがえます。 天保10年(1839年)、先代・茂義の隠居に伴い、わずか8歳で武雄鍋島家を継いだのが茂昌でした。幼くして家督を継いだ茂昌は、成長後、茂義が築いた路線を受け継ぎ、自らも西洋砲術の導入に力を注ぎます。安政6年(1859年)には佐賀藩の請役に就任し、藩政の中枢を担う立場となりました。 こうして武雄では、大砲という「もの」を手に入れるだけではなく、それを実戦で運用するための訓練や組織、補給体制まで整えられていきました。慶応4年(1868年)、朝廷が武雄に出兵を命じた勅状には、「多年西洋砲術研究練兵」の功績がその理由として記されています。長年にわたる地道な軍制改革の積み重ねが、この言葉に表れているのではないでしょうか。 次回は、この武雄軍団が明治維新という時代の転換点でどのような役割を果たし、その後の武雄の人々へどのようにつながっていったのかをたどります。 🌱 未来への種 未来を切り拓く力は、知識を学び、組織を育て、地道に積み重ねる努力から生まれる。 🌿 今日育った種 学びを実践へとつなげる積み重ねが、大きな変化を生み出す。 写真: エンフィールド銃 #橋口きみこの一日一考 #明治維新と武雄 #鍋島茂義 #エンフィールド銃
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橋口紀美子@武雄市の未来を考える会|代表
@kimiha228
7 days ago
🌱 橋口きみこの一日一考 【今日の一言】 探究 ― 学び続ける姿勢が、新たな時代への扉を開く。 【今日の出来事】 今日は、佐賀藩の近代化を支えた武雄領主・鍋島茂義という人物にあらためて焦点を当て、その生涯と挑戦について調べました。 【今日の学び】 若くして佐賀藩の請役という要職に就いた鍋島茂義は、長崎警備の任にあたる中でオランダ船を間近に見学し、西洋の科学技術の水準に強い衝撃を受けたと伝えられています。ここから、茂義の挑戦が始まりました。 天保3年(1832年)、まず家臣の平山醇左衛門を高島秋帆のもとへ入門させ、2年後の天保5年(1834年)には茂義自身も秋帆に師事します。日本の封建領主として初めての入門とされ、天保6年(1835年)には、秋帆から免許皆伝とともに贈られたモルチール砲をきっかけに、武雄では全国に先駆けて自前での大砲製造にも挑戦していきました。 茂義の挑戦は、軍事技術だけにとどまりませんでした。塚崎城下では理化学実験用のガラス器具や蒸留装置が作られ、火薬や雷管の研究も進められました。また、フランスの最新兵器に関する情報をいち早く入手して翻訳するなど、その情報収集力も際立っていました。さらに嘉永7年(1854年)には、佐賀藩精煉方の蒸気船建造の責任者にも任命されています。 一人の領主の好奇心と行動力が、一つの領地を西洋科学の実験の場へと変え、その成果はやがて佐賀藩全体、さらには日本の近代化へとつながっていきました。鍋島茂義の歩みは、その大きな変化の出発点の一つだったと考えられます。 次回は、こうして培われた技術が、幕末の軍事組織としてどのように形づくられていったのかをたどります。 🌱 未来への種 未来を切り拓く原動力は、現状に満足せず学び続ける姿勢から生まれる。 🌿 今日育った種 好奇心を行動へ移した一歩が、時代を動かす力になる。 写真: 鍋島茂義公像(武雄文化会館敷地内庭園) #橋口きみこの一日一考 #明治維新と武雄 #鍋島茂義 #佐賀藩
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橋口紀美子@武雄市の未来を考える会|代表
@kimiha228
8 days ago
🌱 橋口きみこの一日一考 【今日の一言】 発展 ― 一つの挑戦が広がり、大きな力となって未来を築く。 【今日の出来事】 今日は、武雄の挑戦が佐賀藩全体の近代化にどのようにつながっていったのか、武雄が果たした役割について、より詳しく調べました。 【今日の学び】 天保元年(1830年)、17歳という若さで佐賀藩第10代藩主となった鍋島直正は、藩の財政難と旧態依然とした体制の立て直しという大きな課題に直面していました。西洋の軍事技術にも強い関心を抱いていましたが、藩主自ら急進的な改革を進めれば、守旧派の重臣たちの反発や幕府との関係に影響が及ぶことも考えられました。 そこで直正が重用したのが、義兄である武雄領主・鍋島茂義でした。茂義は高島秋帆に学び、大砲鋳造にも取り組むなど、西洋技術の導入を積極的に進めていました。武雄で培われた経験は、佐賀藩の近代化を進めるうえで重要な役割を果たしたと考えられています。 その成果の一つが、天保11年(1840年)の神埼岩田での大砲試射成功です。武雄で磨かれた鋳造技術は、茂義の実弟で佐賀藩士の坂部三十郎らによって本藩へ伝えられました。これを足がかりに、直正は弘化元年(1844年)に火術方を、嘉永5年(1852年)には反射炉や理化学研究所「精煉方」を整備し、近代化を本格的に推し進めていきます。 精煉方では、化学薬品の研究をはじめ、カメラや電信機、ガラスの製作などにも取り組みました。こうした分野には、武雄で培われた知識や技術とのつながりが見られ、武雄での挑戦が佐賀藩全体へ広がっていったことがうかがえます。 その後、佐賀藩は日本で初めて反射炉による鉄製大砲の鋳造に成功し、幕末にはアームストロング砲や蒸気船の製造にも取り組むなど、西日本有数の技術先進藩へと発展しました。 武雄で始まった挑戦は、やがて佐賀藩全体の力となり、日本の近代化にも大きな足跡を残しました。武雄は決して脇役ではなく、その歩みを支えた重要な存在だったのです。 次回は、この挑戦の中心にいた鍋島茂義という人物に、あらためて焦点を当ててみたいと思います。 🌱 未来への種 未来を変える挑戦は、一人ではなく、多くの人へ受け継がれることで大きな力となる。 🌿 今日育った種 小さな挑戦の積み重ねが、やがて時代を動かす礎になる。 写真: 反射炉と24ポンドカノン砲(日新小学校敷地内) #橋口きみこの一日一考 #明治維新と武雄 #鍋島直正 #鍋島茂義
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橋口紀美子@武雄市の未来を考える会|代表
@kimiha228
8 days ago
コメントありがとうございます。 私も、教育そのものは大切であり、大学が地域に貢献することを願っています。 ただ、現時点では、定員140名に対して入学者37名という状況や、開学前に示されていた収支計画などを踏まえると、私は将来の経営や市民負担を大変懸念しています。 公金を投入した以上、市民にとって持続可能な事業だったのかを、事実に基づいて検証することが重要だと考えています。
橋口紀美子@武雄市の未来を考える会|代表
@kimiha228
10 days ago
🌱橋口きみこの一日一考 【今日の一言】 飛躍 ― 地道な積み重ねが、歴史を動かす大きな一歩となる。 【今日の出来事】 これまで、武雄で育まれた学問や技術が、どのように地域全体へ広がり、日本の近代化へとつながっていったのかを調べてきました。 今日は、その学びが実際にどのような形で明治維新の舞台に生かされたのか、「明治維新と武雄」という視点から調べてみました。 【今日の学び】 武雄で培われた軍事技術は、決して一時的なものではありませんでした。 上野の彰義隊との戦いで威力を発揮したアームストロング砲に象徴される佐賀藩の近代的な軍備は、旧幕府軍に大きな脅威を与えました。武雄軍団もまた、その実力を評価され、新政府軍の一翼を担う存在となります。 フェートン号事件をきっかけに、鍋島茂義が西洋の学問や技術を積極的に取り入れてから、およそ半世紀。武雄で育まれた蘭学や軍事技術は、ついに実戦の場でその力を発揮することになりました。 戦況の変化に伴い、武雄軍団の戦場は関東から新潟、さらに秋田へと移ります。慶応4年(1868)8月、武雄領主・鍋島茂昌は、自ら最新式のアームストロング砲を含む大砲10門と約1,000人の兵を率いて久保田(現在の秋田市)に上陸し、9月末まで羽州(現在の秋田県・山形県)各地を転戦しました。 武雄軍団が装備していた最新式の大砲や小銃は、旧式の武器で戦う諸藩の兵たちを大いに驚かせたと伝えられています。 10月に戦いは終結し、11月には武雄へ帰還しました。しかし、この遠征で14名の戦病死者を出しました。 その後、茂昌は新政府からの任官の誘いを幾度も受けながら、それを固辞し、武雄で静かな余生を送りました。 🌱未来への種 武雄が幕末から明治維新にかけて果たした役割は、決して偶然ではありませんでした。 長年にわたり学び続け、技術を磨き、人を育ててきた積み重ねがあったからこそ、時代の転換点で大きな力を発揮することができたのです。 歴史を振り返ると、未来を切り拓く力は、一日で生まれるものではなく、日々の学びの積み重ねから育まれることを改めて感じます。 🌿今日育った種 受け継がれた学びは、時代が求めるその時に、大きな力となって花開く。 写真 : アームストロング砲 #橋口きみこの一日一考 #飛躍 #鍋島茂昌 #明治維新
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橋口紀美子@武雄市の未来を考える会|代表
@kimiha228
9 days ago
🌱橋口きみこの一日一考 【今日の一言】 革新 ― 変化を恐れず、新しい知恵を取り入れる力が未来を切り拓く。 【今日の出来事】 幕末という激動の時代、多くの藩が変化に対応できずに立ち尽くす中、佐賀藩とその一領であった武雄は、なぜいち早く西洋の技術や知識を取り入れることができたのか。 今日は、その理由について武雄の視点からたどってみました。 【今日の学び】 武雄が幕末の変化に対応できた理由は、一つの要因だけではありません。 長崎に近いという地理的条件。 外国の力を現実として感じた危機意識。 そして、新しいものを取り入れることができる領主の決断力。 この3つが重なったことで、武雄は時代の変化をいち早く捉えることができたのではないでしょうか。 歴史を振り返ると、未来を切り拓く地域には、必ず「変化を恐れず学ぶ姿勢」があります。 幕末の武雄の挑戦は、現代を生きる私たちにも大切な問いを投げかけています。 変化の時代に必要なのは、過去にとらわれることではなく、先人たちのように未来を見据えて行動する勇気なのかもしれません。 次回は、武雄の挑戦がどのように佐賀藩全体の近代化へつながっていったのかを考えていきます。 🌱未来への種 地域の未来は、先人たちが残した挑戦の精神を受け継ぎ、今を生きる私たちが育てていく。 🌿今日育った種 変化の時代こそ、学び、考え、行動する地域に未来は開かれる。 写真:武雄図書館 明治維新と武雄について調べながら、先人たちの挑戦に思いを巡らせました。 #橋口きみこの一日一考 #明治維新と武雄 #鍋島茂義 #ふるさとの未来を考える
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橋口紀美子@武雄市の未来を考える会|代表
@kimiha228
9 days ago
【noteを始めました】 これまでFacebookで「一日一考」として投稿してきた内容をもとに、初めてnoteに長文記事を公開しました。 今回のテーマは、「武雄鍋島家 ― 学びが時代を切り拓いた物語」|橋口きみこ フェートン号事件をきっかけに始まった蘭学の導入、西洋式大砲への挑戦、牛痘種痘、三ノ丸窯、身教館、そして明治維新へ。 武雄鍋島家が育んだ「学び」が、どのように佐賀藩、そして日本の近代化へとつながっていったのかを、史料をもとに一つの物語としてまとめました。 「一日一考」では書ききれなかった背景やつながりも加えていますので、ぜひご覧いただけると嬉しいです。 https://t.co/jDu4hPopmd #note #武雄鍋島家 #幕末 #郷土史 #蘭学
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橋口紀美子@武雄市の未来を考える会|代表
@kimiha228
11 days ago
🌱橋口きみこの一日一考 【今日の一言】 継承 ― 学びは受け継がれ、新たな時代を切り拓く。 【今日の出来事】 今日は、武雄で育まれた学問や技術が、どのように地域全体へ広がり、日本の近代化へとつながっていったのかを振り返ってみました。 【今日の学び】 ここまで8回にわたり、武雄鍋島家が育んだ「学び」の歩みをたどってきました。 その始まりは、フェートン号事件によって突きつけられた西洋との技術力の差でした。 武雄領主・鍋島茂義は、その課題から目を背けることなく、高島秋帆に師事して西洋砲術を学び、日本初期の洋式大砲を武雄へもたらしました。そして武雄で培われた技術は、義弟・鍋島直正のもとで鍋島本藩の反射炉や精煉方へと受け継がれ、幕末日本を代表する軍事技術の礎となっていきます。 医学の分野では、武雄鍋島家お抱えの中村凉庵が、牛痘種痘という命を守る西洋医学をいち早く武雄へ伝えました。 また、三ノ丸窯では、美しい焼物だけでなく、大砲製造や理化学実験に用いる器具まで自ら製作し、蘭学は知識として学ぶだけではなく、「実際につくり、試す学問」として地域に根づいていきました。 こうした学びを支え続けたのが、享保2年(1717)に開設された身教館です。鍋島藩内でも早い時期に設けられたこの学び舎では、日本の古典や歴史だけでなく、西洋の化学や火薬に関する知識も学ばれ、多くの人材が育ちました。 大砲、医学、焼物、そして人づくり。 一つの支藩であった武雄が、なぜこれほどまでに時代を切り拓く力を持つことができたのでしょうか。 私は、その答えは「学んだことを恐れず、自分の手で確かめ、実践する」という姿勢が、代々受け継がれてきたことにあるのではないかと感じました。 🌱未来への種 知識は、学ぶだけでは未来を変えません。 学びを実践へとつなぎ、その経験を次の世代へ受け継いでいくことで、新しい時代は築かれていきます。 武雄鍋島家が残した歩みは、そのことを今も私たちに教えてくれているように思います。 🌿今日育った種 学びは、人から人へ受け継がれ、地域を育て、やがて時代を動かす力となる。 写真 : 武雄蘭書(国指定重要文化財) #橋口きみこの一日一考 #継承 #鍋島茂義 #蘭学
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橋口紀美子@武雄市の未来を考える会|代表
@kimiha228
11 days ago
【恵比須さんシリーズ 第5回】 大智福徳恵比須様 ― 知恵と福徳を授ける恵比須様 5日間にわたりお届けしてきた「恵比須さんシリーズ」も、今回が最終回です。 今回ご紹介するのは、佐賀市与賀町の与賀神社境内にある佐賀恵比須神社の「大智福徳恵比須(だいちふくとくえびす)様」です。 佐賀恵比須神社には、大小さまざまな恵比須様が鎮座されています。その中でもひときわ目を引くのが、平成19年(2007年)に建立された大智福徳恵比須様です。 一般的な恵比須様は左脇に鯛を抱えておられますが、大智福徳恵比須様が抱えているのは八本の巻物です。 この巻物は、学問や知恵を象徴しているとされ、学業成就や合格祈願、知恵を授かることを願う人々から親しまれています。 また、「大智(大いなる知恵)」と「福徳(福や豊かさ)」を併せ持つ恵比須様であることから、学問だけでなく、商売繁盛や人生の幸福も願うことができる、全国的にも珍しい恵比須様とされています。 さらに、境内には宝寿亀(ほうじゅがめ)をはじめとする縁起の良い像も点在しており、ゆっくりと巡りながらお参りを楽しむことができます。 知恵を磨くことも、福を招くことも、一日で成し遂げられるものではありません。 日々学び、努力を積み重ねることが、やがて大きな実りにつながることを、大智福徳恵比須様は私たちに教えてくださっているように感じます。 5日間にわたり「恵比須さんシリーズ」をお読みいただき、ありがとうございました。 このシリーズを通して、佐賀に息づく恵比須信仰の歴史や、人々の願いが込められた一体一体の恵比須様の魅力を、少しでもお伝えできていたら幸いです。 これからも、佐賀や武雄の歴史・文化・魅力を学びながら、皆さまと一緒に発信を続けていきたいと思います。 今回の恵比須様:大智福徳恵比須様(佐賀恵比須神社・与賀神社境内) #佐賀の恵比寿さん #大智福徳恵比須
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橋口紀美子@武雄市の未来を考える会|代表
@kimiha228
12 days ago
🌱 橋口きみこの一日一考 【今日の一言】 学び ― 人を育てることは、未来を育てること。 【今日の出来事】 今日は、武雄の学びを次世代へとつないだ教育機関「身教館」について調べてみました。 これまで調べてきた蘭学や大砲、種痘、焼物などの背景には、それらを支える「人づくり」がありました。その原点となったのが、武雄鍋島家が設けた身教館だったことを知りました。 【今日の学び】 身教館は、享保2年(1717)に開設された武雄鍋島家の教育機関で、鍋島藩内でも早い時期に設けられた藩校の一つとされています。 当時、武士の家に生まれた男子には、8歳から20歳まで学問を修めることが求められていました。遠方に住む者は14歳までは領内の私塾で学ぶことも認められていましたが、15歳になると寮に入り、身教館で学ぶことになっていました。 江戸時代後期には約230人の生徒が学び、授業は午前5時から午後9時まで続いたと伝えられています。現代の私たちから見ると驚くほど長時間ですが、それだけ人材育成に力を注いでいたことがうかがえます。 武雄鍋島家27代茂順、28代茂義、29代茂昌の時代には、文武両道が奨励され、多くの人材が育ちました。 身教館の蔵書には、「武縣庫籍(武雄領所蔵の本)」や、開設を計画した茂紀の名を示す「茂紀」の蔵書印が押されていたことが知られています。 学ぶ内容も、日本の古典や歴史だけにとどまらず、やがて西洋の化学や火薬製造に関する知識まで取り入れられるようになりました。 こうした教育の積み重ねが、これまで学んできた蘭学、大砲、種痘、焼物などの技術を支える土台となり、武雄から多くの人材が育っていったことを知りました。 🌱未来への種 優れた技術や文化は、一人の才能だけでは受け継がれません。 人を育て、学びを次の世代へつないでいく教育があってこそ、新しい時代を切り拓く力が生まれます。 武雄鍋島家が約300年前から人づくりを大切にしてきた歩みは、教育の大切さを改めて教えてくれました。 🌿今日育った種 未来を変えるのは技術だけではない。学び続ける人を育てることが、未来をつくる 写真 : 佐賀県立武雄高等学校正門 (身教館は武雄高校敷地付近にあったとされています) #橋口きみこの一日一考 #学び #身教館 #武雄鍋島家
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