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使い方わからん
@lsdoyp
素直に受け入れろ
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使い方わからん
@lsdoyp
about 14 hours ago
ただここで忘れてならないのは、これら弟子たちへのオランダ語の指導は、オランダ語に未熟なシーボルト本人にはできなかった、ということである。その指導をおこなったのは主に、馬場佐十郎と並び称された語学の天才・吉雄権之助 (吉雄耕牛の息子)と、出島乙名の多忙なつとめの合間をぬって塾に通った物理学者・末次忠助であり、いずれも志筑忠雄の高弟であった。シーボルトの通訳をつとめた吉雄忠次郎(吉雄耕牛の弟の孫)も、急逝した馬場佐十郎の後任として天文台の翻訳方をつとめ、権之助と並ぶ二雄と称された俊才で、鳴滝塾生を指導した。彼らが、鳴滝塾で多くのシーボルトの門弟に天文・暦算・数学を教え、鳴滝塾初代塾頭となる美馬順三たちを指導して英才に育てあげたのである。そして塾頭の美馬順三と、岡研介らが日々の門弟指導をおこなった。シーボルトはこうして有能な通詞のほか、画才に卓抜した腕を持つ絵師・川原慶賀の協力を得て、日本の動植物・地理・歴史・言語の研究に没頭することができた。京都丹後生まれで現在の京都大学医学部の土台を築いた新宮涼庭はシーボルトの門弟ではなかったが、彼も長崎に赴いて吉雄権之助に師事し、オランダ語を徹底的に学び、末次忠助にも師事してその蘭学を大成した人物である。 こうしてすぐれた通詞、町年寄、出島乙名たちに囲まれた幸運なシーボルトは、出島から通って診療と臨床講義を実施しながら、門弟に西洋医学と自然科学を講義したのだが、それはただの医学教育ではなかった。実地に診療もおこない、 薬物に関連づけて、まだ日本でまったく知られていない化学について指導した。このことが、高野長英たちに自ら科学や元素の「原理を考えさせる」大きなヒントの踏み台となり、後年の俊才、自らの頭でこの世の原理を追究する真の科学者を生み出したのである。それにより人体の生理学や蘭方医術が大きく進み、日本人が種痘法に目を開くことにも至った。この蘭学隆盛の流れの中から、シーボルトの鳴滝塾を設立するのに力を尽くした高島秋帆は、種子島以来の砲術師から先へ進んで、洋式砲術を究めようとした。伊東玄朴は佐賀藩主・鍋島閑叟の娘に種痘を施して、ついにその成功に導く。シーボルトの著書の翻訳に取り組んだ青地林宗は、理学の道を究めて、日本に物理学の体系を確立してゆく。江戸参府したシーボルトに西洋学術について質疑した宇田川榕庵は百科学の翻訳から入って植物学と化学に太い道を拓いていった。尾張名古屋藩の伊藤圭介も植物学より入ってリンネの分類法を紹介し、わが国における食糧飢饉対策の実用書を生み出す。戸塚静海は外科学に、高野長英は生理学に取り組んだ。日野鼎哉は京都に種痘を普及して多くの人を救った。その多くが幕末維新時代の科学文化発展の担い手となった。だが改めて記しておくが、右腕・吉雄権之助の才能あって初めて、シーボルトの数々の偉業が成ったのである。 てきな?
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使い方わからん
@lsdoyp
about 15 hours ago
江戸時代には、オランダ人の科学は、ヨーロッパで群を抜いて高い水準にあった。 一七○三年から、医師で植物学者のヘルマン・ブールハーフェがオランダのライデン大学で世界最初の臨床医学教育をおこない、解剖学をはじめとする近代的医学教育の創始者となって、ライデン大学の医学がヨーロッパ全土に鳴り響いた。こうして彼の門下から植物学者カール・フォン・リンネたちが巣立ち、日本の蘭学に大きな影響を及ぼした。 「出島の三学者」と呼ばれたのは、ケンペル、ツュンベリー、 シーボルトの三人だが、志筑忠雄に大きな影響を与えたドイツ人オランダ商館医ケンペルは帰国後の一七一二年に『廻国奇観』で「日本における植物」を紹介して、現生する種子植物としては最古の部類に入ることから「生きた化石」と呼ばれるイチョウが日本に現存していることを学界に紹介した。 生物分類学の父リンネもこれに大変な興味を示し、その結果、 リンネの高弟だったスウェーデン人ツュンべリーが長崎のオランダ商館医として日本に派遣され、『日本植物誌』を書いて日本植物学の父と呼ばれるようになり、同書を読んで日本に興味を抱いたシーボルトが来日したのである。 大航海時代の初期に世界の海を制覇した「ヨーロッパの最も先進的な」 ポルトガル人とスペイン人が日本に到来した。続いてそれを引き継いで出島に流入したオランダ文化文明は、これまた「ヨーロッパの最も先進的な」ものであった。日本人にとって、鎖国状態の江戸時代に彼らが世界の海を制覇して米航し、その実力をもって長崎に世界的な最先端の文化文明をもたらしたことは、まことに奇遇だったと言わなければならない。出島に輸入されたものが単にヨーロッパの文明ではなく、世界最先端の文明であったことは、 日本にとって幸運だったと言えるだろう。 こうして、医学・植物学・化学・物理学・天文学・兵学・ 語学をはじめとする蘭学の長崎流入が始まったのである。 ↑ 日本は明治維新で突然近代化したのではない。つまり、長く深い蘭学の伝統のなかで、ヨーロッパの学問を本格的に検討してきた歴史の積み上げがあったのです。そのなかで、化学や物理学など、当時の日本の伝統的学問とは全く異なる体系を持つヨーロッパの基礎科学の基礎概念やその用語が理解できていたために、応用技術である製鉄所の建設や火薬の開発なども、比較的短時間のうちに可能だったと考えていいでしょう。 ヨーロッパ基礎科学の受容のために最も重要だと考えられるのは、 日本語の科学技術の言葉、つまり日本語でのテクニカル・タームとキーコンセプトの体系をつくることです。それらはほとんど、江戸時代の蘭学者がつくってきたものです。オランダ語を翻訳しながら解釈していくということ、これは大変な知的作業で、江戸時代からの長い準備期間が、その後の近代国家としての日本の離陸(テイク・オフ)に役立っていたのです。 みたいな?
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使い方わからん
@lsdoyp
about 17 hours ago
江戸時代には、オランダ人の科学は、ヨーロッパで群を抜いて高い水準にあった。 一七○三年から、医師で植物学者のヘルマン・ブールハーフェがオランダのライデン大学で世界最初の臨床医学教育をおこない、解剖学をはじめとする近代的医学教育の創始者となって、ライデン大学の医学がヨーロッパ全土に鳴り響いた。こうして彼の門下から植物学者カール・フォン・リンネたちが巣立ち、日本の蘭学に大きな影響を及ぼした。 「出島の三学者」と呼ばれたのは、ケンペル、ツュンベリー、 シーボルトの三人だが、志筑忠雄に大きな影響を与えたドイツ人オランダ商館医ケンペルは帰国後の一七一二年に『廻国奇観』で「日本における植物」を紹介して、現生する種子植物としては最古の部類に入ることから「生きた化石」と呼ばれるイチョウが日本に現存していることを学界に紹介した。 生物分類学の父リンネもこれに大変な興味を示し、その結果、 リンネの高弟だったスウェーデン人ツュンべリーが長崎のオランダ商館医として日本に派遣され、『日本植物誌』を書いて日本植物学の父と呼ばれるようになり、同書を読んで日本に興味を抱いたシーボルトが来日したのである。 大航海時代の初期に世界の海を制覇した「ヨーロッパの最も先進的な」 ポルトガル人とスペイン人が日本に到来した。続いてそれを引き継いで出島に流入したオランダ文化文明は、これまた「ヨーロッパの最も先進的な」ものであった。日本人にとって、鎖国状態の江戸時代に彼らが世界の海を制覇して米航し、その実力をもって長崎に世界的な最先端の文化文明をもたらしたことは、まことに奇遇だったと言わなければならない。出島に輸入されたものが単にョーロッパの文明ではなく、世界最先端の文明であったことは、 日本にとって幸運だったと言えるだろう。 こうして、医学・植物学・化学・物理学・天文学・兵学・ 語学をはじめとする蘭学の長崎流入が始まったのである。 ↑ 日本は明治維新で突然近代化したのではない。つまり、長く深い蘭学の伝統のなかで、ヨーロッパの学問を本格的に検討してきた歴史の積み上げがあったのです。そのなかで、化学や物理学など、当時の日本の伝統的学問とは全く異なる体系を持つヨーロッパの基礎科学の基礎概念やその用語が理解できていたために、応用技術である製鉄所の建設や火薬の開発なども、比較的短時間のうちに可能だったと考えていいでしょう。 ヨーロッパ基礎科学の受容のために最も重要だと考えられるのは、 日本語の科学技術の言葉、つまり日本語でのテクニカル・タームとキーコンセプトの体系をつくることです。それらはほとんど、江戸時代の蘭学者がつくってきたものです。オランダ語を翻訳しながら解釈していくということ、これは大変な知的作業で、江戸時代からの長い準備期間が、その後の近代国家としての日本の離陸(テイク・オフ)に役立っていたのです。 みたいな?
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使い方わからん
@lsdoyp
2 days ago
江戸時代には、オランダ人の科学は、ヨーロッパで群を抜いて高い水準にあった。 省略 一七○三年から、医師で植物学者のヘルマン・ブールハーフェがオランダのライデン大学で世界最初の臨床医学教育をおこない、解剖学をはじめとする近代的医学教育の創始者となって、ライデン大学の医学がヨーロッパ全土に鳴り響いた。こうして彼の門下から植物学者カール・フォン・リンネたちが巣立ち、日本の蘭学に大きな影響を及ぼした。 「出島の三学者」と呼ばれたのは、ケンペル、ツュンベリー、 シーボルトの三人だが、志筑忠雄に大きな影響を与えたドイツ人オランダ商館医ケンペルは帰国後の一七一二年に『廻国奇観』で「日本における植物」を紹介して、現生する種子植物としては最古の部類に入ることから「生きた化石」と呼ばれるイチョウが日本に現存していることを学界に紹介した。 生物分類学の父リンネもこれに大変な興味を示し、その結果、 リンネの高弟だったスウェーデン人ツュンべリーが長崎のオランダ商館医として日本に派遣され、『日本植物誌』を書いて日本植物学の父と呼ばれるようになり、同書を読んで日本に興味を抱いたシーボルトが来日したのである。 大航海時代の初期に世界の海を制覇した「ヨーロッパの最も先進的な」 ポルトガル人とスペイン人が日本に到来した。続いてそれを引き継いで出島に流入したオランダ文化文明は、これまた「ヨーロッパの最も先進的な」ものであった。日本人にとって、鎖国状態の江戸時代に彼らが世界の海を制覇して米航し、その実力をもって長崎に世界的な最先端の文化文明をもたらしたことは、まことに奇遇だったと言わなければならない。出島に輸入されたものが単にョーロッパの文明ではなく、世界最先端の文明であったことは、 日本にとって幸運だったと言えるだろう。 こうして、医学・植物学・化学・物理学・天文学・兵学・ 語学をはじめとする蘭学の長崎流入が始まったのである。 ↑ 日本は明治維新で突然近代化したのではない。つまり、長く深い蘭学の伝統のなかで、ヨーロッパの学問を本格的に検討してきた歴史の積み上げがあったのです。そのなかで、化学や物理学など、当時の日本の伝統的学問とは全く異なる体系を持つヨーロッパの基礎科学の基礎概念やその用語が理解できていたために、応用技術である製鉄所の建設や火薬の開発なども、比較的短時間のうちに可能だったと考えていいでしょう。 ヨーロッパ基礎科学の受容のために最も重要だと考えられるのは、 日本語の科学技術の言葉、つまり日本語でのテクニカル・タームとキーコンセプトの体系をつくることです。それらはほとんど、江戸時代の蘭学者がつくってきたものです。オランダ語を翻訳しながら解釈していくということ、これは大変な知的作業で、江戸時代からの長い準備期間が、その後の近代国家としての日本の離陸(テイク・オフ)に役立っていたのです。 みたいな?
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ドF
@v4yn__794yay8_9
2 days ago
戦前のニューヨーク本当におかしい
使い方わからん
@lsdoyp
2 days ago
江戸時代には、オランダ人の科学は、ヨーロッパで群を抜いて高い水準にあった。 省略 一七○三年から、医師で植物学者のヘルマン・ブールハーフェがオランダのライデン大学で世界最初の臨床医学教育をおこない、解剖学をはじめとする近代的医学教育の創始者となって、ライデン大学の医学がヨーロッパ全土に鳴り響いた。こうして彼の門下から植物学者カール・フォン・リンネたちが巣立ち、日本の蘭学に大きな影響を及ぼした。 「出島の三学者」と呼ばれたのは、ケンペル、ツュンベリー、 シーボルトの三人だが、志筑忠雄に大きな影響を与えたドイツ人オランダ商館医ケンペルは帰国後の一七一二年に『廻国奇観』で「日本における植物」を紹介して、現生する種子植物としては最古の部類に入ることから「生きた化石」と呼ばれるイチョウが日本に現存していることを学界に紹介した。 生物分類学の父リンネもこれに大変な興味を示し、その結果、 リンネの高弟だったスウェーデン人ツュンべリーが長崎のオランダ商館医として日本に派遣され、『日本植物誌』を書いて日本植物学の父と呼ばれるようになり、同書を読んで日本に興味を抱いたシーボルトが来日したのである。 大航海時代の初期に世界の海を制覇した「ヨーロッパの最も先進的な」 ポルトガル人とスペイン人が日本に到来した。続いてそれを引き継いで出島に流入したオランダ文化文明は、これまた「ヨーロッパの最も先進的な」ものであった。日本人にとって、鎖国状態の江戸時代に彼らが世界の海を制覇して米航し、その実力をもって長崎に世界的な最先端の文化文明をもたらしたことは、まことに奇遇だったと言わなければならない。出島に輸入されたものが単にョーロッパの文明ではなく、世界最先端の文明であったことは、 日本にとって幸運だったと言えるだろう。 こうして、医学・植物学・化学・物理学・天文学・兵学・ 語学をはじめとする蘭学の長崎流入が始まったのである。 ↑ 日本は明治維新で突然近代化したのではない。つまり、長く深い蘭学の伝統のなかで、ヨーロッパの学問を本格的に検討してきた歴史の積み上げがあったのです。そのなかで、化学や物理学など、当時の日本の伝統的学問とは全く異なる体系を持つヨーロッパの基礎科学の基礎概念やその用語が理解できていたために、応用技術である製鉄所の建設や火薬の開発なども、比較的短時間のうちに可能だったと考えていいでしょう。 ヨーロッパ基礎科学の受容のために最も重要だと考えられるのは、 日本語の科学技術の言葉、つまり日本語でのテクニカル・タームとキーコンセプトの体系をつくることです。それらはほとんど、江戸時代の蘭学者がつくってきたものです。オランダ語を翻訳しながら解釈していくということ、これは大変な知的作業で、江戸時代からの長い準備期間が、その後の近代国家としての日本の離陸(テイク・オフ)に役立っていたのです。 みたいな?
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使い方わからん
@lsdoyp
2 days ago
そもそも世界最大の金融都市ニューヨークの町を生み出したのは、オランダ人であった。その歴史は古く、 一六〇九年に、オランダ東インド会社に雇われたイギリス人探検家ヘンリー・ハドソンが、イタリア人に続いてアメリカのマンハッタン島を探検し、ここに流れる川が彼に因んでハドソン川と名付けられた。一六一四年になると、オランダ人が毛皮交易のためにその一帯に入植した。これは、徳川家康が豊臣家の残党に襲いかかった大坂冬の陣の年にあたるから、 かなり早くからアメリカに進出していたのである。メイフラワー号の乗組員がアメリカに上陸した翌年、一六二一年にはオランダ西インド会社が設立され、アメリカとアフリカでの二四年間の独占貿易権を獲得して本格的な北米進出を開始した。そしてバタヴィア(ジャカルタ)とアフリカ(南アのケープタウン)から現地人を奴隷として強制的に移住させたのである。さらに一六二四年にオランダ総督がマンハッタン島を原住民のインディアンから購入して、現在のニューヨークの土地をニーウアムステルダム Nieuw Amsterdam, (New Amsterdam)と命名した。一六五二年にインディアンやイギリス人からの攻撃に備えて壁(wall)を築き、今日のウォール街が生まれた。イギリス人がこの地を占領したのは一六六四年だが、一六七一年には再びオランダ人が取り戻し、一七七六年にアメリカ合衆国が独立後にイギリス人の手に落ち、 最終的にニューヨークと改称された。 このオランダ人たちが出島にやってきて、退屈しのぎにバドミントンを楽しむふりをしながら貿易をしたわけである。大航海時代の初期に世界の海を制覇した「 ヨーロッパの最も先進的な」 ポルトガル人とスペイン人が日本に到来した。続いてそれを引き継いで出島に流入したオランダ文化文明は、これまた「ヨーロッパの最も先進的な」ものであった。日本人にとって、鎖国状態の江戸時代に彼らが世界の海を制覇して来航し、その実力をもって長崎に世界的な最先端の文化文明をもたらしたことは、まことに奇遇だったと言わなければならない。出島に輸入されたものが単にヨーロッパの文明ではなく、世界最先端の文明であったことは、 日本にとって幸運だったと言えるだろう。 こうして、医学・植物学・化学・物理学・天文学・兵学・ 語学をはじめとする蘭学の長崎流入が始まったのである。 みたいな?
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使い方わからん
@lsdoyp
2 days ago
『幕末の洋学事情』 近代の発信地、長崎と蘭医と近代教育 早稲〇大学名誉教授・杉本つとむ ことに洋学の語で代表される欧米文化・学芸の翻訳の事業は、明治維新をさかのぼる約半世紀でその第一歩をふみだしたといってよい。これまで日本史の上で必ずしも十分に洋学の位置づけがおこなわれているとは思えない。 種蒔かた近代教育 ここでいう近代教育とは形式的には一週七日を基準として、六日乃至五日の授業日を設定する時間割と、内容的にはヨーロッパの文教制度、具体的には蘭語から英語へ、また諸外国の学習、物理、化学、数学など科学の学習教育などを意味する。また、種蒔いた人、教授者に蘭人をはじめ米、英、仏各外国人などの存在することも人的要素として考慮さるべきである。もちろん内面的には、ヨーロッパの人間主義、いわば精神文化の理解と認識である。以下、わたしの描く幕末の洋学のパラダイム(四頁の図参照)を実証することとする。近代教育の特色は西洋学芸・ 文化の摂取(その功罪は今は問わない)が中心となっておこなわれたのである。そのため、明治にはいって、学校や学訓、さらに文部省の設置など、制度、機関の整備も大切な条件である。広い意味でも教育制度も欧米にならって整備されていった。江戸時代の教育機関などと質量ともに大差のあるところである。内容的にも儒学(朱子学)が中心であった江戸時代とは比較にならぬ多種多様な欧米の学芸を学び、 教育されることとなったのである。江戸時代に、鎖国によって、日本的なものが十二分に熟成して、固有の文化・ 学芸が創造されたが。しかし世界史的にみるとき、やはり欧米諸国に比して立ちおくれているということは歴然であった。その点、開国による幕末の約十余年は、むしろ近代へ移行すべきつの過渡期として急ピッチで教育機関が設置され、 内容の拡充がはかられたのである。ことに洋学の語で代表される欧米文化・学芸の摂取や翻訳の事業は、明治維新をさかのぼる約半世紀でその第一歩をふみだしたといってよい。これまで日本史の上で必ずしも十分に洋学の位置づけがおこなわれているとは思えない。 私見では文化八年(一八一一)の<和蘭書籍和解御用>(翻訳局)が近代教育の第一ページを聞くものということができる。その中心人物は長崎蘭通詞、馬場佐十郎である。
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産経ニュース
@Sankei_news
6 days ago
<産経抄>ノーベル賞受賞者が多いのは、日本語のおかげ https://t.co/3kQxJ6tRrg なぜ、日本人のノーベル賞受賞者が多いのか。学問を日本語で学べるからだ。平成12年にノーベル化学賞を受賞し、先月24日に90歳で亡くなった白川英樹さんはそう考えていた。
使い方わからん
@lsdoyp
2 days ago
@b1004chan
人間→男
使い方わからん
@lsdoyp
2 days ago
どのようにして長崎に知恵が生まれ、広がったか 私たち現代人が普段何気なく使っている言葉に、水素、炭素、酸素、窒素、元素、物質、法国、容積、燃焼、酸化,還元、温度、結晶、溶液といったものがある。この山のような科学用語・化学用語は、いずれも美濃国大垣藩(岐阜県)出身の美作国(岡山県津山市)の蘭学者・宇田川榕庵が、明治維新の三○年以上も前に創作した日本語であった。江戸時代にはオランダを和蘭あるいは阿蘭陀と書いたので、オランダ人のもたらした学問を蘭学と称し、それに通じた人が、宇田川榕庵のような蘭学者であった。ただし蘭学とは、オランダ人の学問ではなく、オランダ語を通してフランス・ドイツ・イギリス・ロシア・北欧に至るまで全ヨーロッパの近代文明を学ぶ学問のことであった。現在は、江戸時代に蘭学を柱にして発展した学問と、文明や技術全体を総称して「洋学」と呼んでいる。 榕庵に続いたのは、摂津三田藩(兵庫県三田市)出身の蘭学者・川本幸民であった。川本はペリー提督の二度目の来航時、一八五四年には、早くも当時の西洋先端科学技術を日本人に理解させるため、蒸気船の製造法と、電信と、飛行船など西洋の新技術を網羅した『達西奇器述』と題したすぐれた本を書き、最も初期の銀板写真法による写真と電信機などについて解説した天才であった。 さらに一八六一年に川本幸民が『化学新書』と題する本を著し、ここで彼がわが国で初めて「化学」という言葉を用い、 榕庵の科学用語に加えて、時間、午前、蛋白、大気、空気、 水蒸気、軽金属、重金属、ブドウ糖、尿素、合成、化学変化、 気象といった数々の現代用語を創案したのだ。 その歴史の先を追って面白いのは、この由来である。化学の先駆者・宇田川榕庵は、江戸時代最高のオランダ語学者と称された長崎オランダ通詞(通訳)の馬場佐十郎に蘭学を学んだ人であった。もう一方の川本幸民は、その蘭学者・榕庵の養父・宇田川玄真に育てられたオランダ医師・坪井信道の門下生であったので、二人は学問のつながりを持っていた。 さらに、美濃国(岐阜県)の百姓の出ながら医学界の先駆者となったこの坪井信道と、弟子・川本幸民は、二人とも、伊予松山藩(愛媛県)出身の青地林宗の女婿となって義理の兄弟関係となった。 これら天才の岳父となった青地林宗もまた、宇田川榕庵と同じように、長崎の人・馬場佐十郎に天文学を学んだ蘭学者であった。この青地林宗がまた、大気圧の測定法などを究めて、わが国最初の近代的物理学を創始した人だったのである。 では、これら宇田川榕庵と青地林宗の知識の泉となった馬場佐十郎の叡智がどこから生まれたかといえば、長崎のオランダ通詞としてわが国で最初にニュートンの力学を究めた天才の中の天才、志筑忠雄にオランダ語と西洋物理を学んだ時にあった。この志筑忠雄が切り拓いたニュートン力学を、大砲から発射される砲弾が飛ぶ軌道計算に応用して正確な射撃術を突き止め、幕末にわが国で最初に西洋砲術を確立した人が高島秋帆だったのである。 では、その天才・志筑忠雄のオランダ語と天文学の師は誰かと問えば、志筑に先立って初めてコペルニクスの宇宙論を考究し、一七七四年(安永三年)にわが国で最初に地動説を紹介した、長崎オランダ通詞、「日本のコペルニクス」と呼ばれた天才天文学者の本木良永(りょうえい、とも)であった。一事が次の出来事を起こす流れを「風が吹けば桶屋が儲かる」と言って皮肉ることもあるが、それとは違って、このような知恵の伝播は、まぎれもなく天才から天才へと連鎖的に起こったのである。 誤解のないように断っておくと、「天才」の言葉を濫用しているのではない。他人より図抜けた事を成し遂げた人間を天才と呼ぶなら、世の中は天才だらけになってしまう。天才とは、特別の天性とひらめき、それは神がその人にだけ与えたとしか思えない文字通り天賦の才をもって、他人が努力しても成し得ない奇蹟的なことを成し遂げる人を言う。クラシック音楽の作曲家たちはその代表者だが、やはり科学の世界でも数々の天才を輩出してきた。ニュートンが万有引力の法則を発表したのは一六八七年だが、先に述べた通り、そのニュートンの発表から一六年後、一七〇三年に大石内蔵助ら赤穂浪士が吉良邸に討入りし、血祭りに大騒ぎしていたのである。一七七四年に初めてコペルニクスの地動説を紹介した本木良水や、志筑忠雄がそれを引き継いで「分子・真空・引力・重力・求心力・遠心力・動力・速力・浮力・加速」などの物理学用語、「地動説・天動説・真空・楕円・衛星」などの天文学用語、これらすべての日本語を創始したのだから、長崎人の犀利が、この日本でどれほど大きく抜きん出て、先に進んでいたかを考えてみればよい。万有引力と仇討ちでは、月とスッポンである、と読者はお考えにならないだろうか ↑ もっと居るだろ、注目すべき人間が
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使い方わからん
@lsdoyp
2 days ago
ヘルジャパン? ほとんどの日本人が“日本医学史上最初の解剖学書”は『解体新書」である、と勘違いしているのは、一体どうしたことか・・・・・・ レムメリンの解剖学書の翻訳を手がけていた本木良意が燃えるような熱意をもって、執拗にライネに質問をくり返し、日本人にとってまったく未熟な解剖医学の知識を吸収しようと努めたのである。解剖学書の入手から九年後の一六八二年(天和二年四月)、ついに大通詞・本木良意が“日本人による最初の人体解剖図書の翻訳を完成”したのだ。ニュートンの万有引力の発表に先立つ五年前、という早い時代であった。本木は原書の意を取り違えぬよう、たびたびオランダ商館医と相談しながら、 正確に翻訳を終えて、これを長崎奉行に納め、稲葉正則に献上した。同書は『阿蘭陀経絡筋脈臓腑図解』、『阿蘭陀経絡図』、『紅毛銅人形図』などの題で呼ばれ、解剖図と説明書のオランダけいらくけいらく二冊から成っていた。訳書の題に使われている経絡という言葉は、漢方医学における鍼灸や温熱療法などのツボの源を説明する大切な概念で、体内に張りめぐらされている、現代風に言えば神経の通り道のようなものを意味する言葉だったから、そのような「体内のメカニズム」の意味をこめて訳書が名づけられたものであろう。西洋医学が発達した現代に、 病気を、解剖外科学と西洋的な化学医薬品一辺倒だけでは治根できないとして、ハリ麻酔や良導絡療法をはじめ、内科・外科とも、この経絡がますます注目されていることは、 読者ご存知の通りである。本木良意がこの翻訳を完了した一八八二年は、杉田玄白らの『解体新書』が発刊された一七七四年(安永三年)に先立つほぼ一世紀、九二年も前の大いな医学の離れ業であった。ほとんどの日本人が日本医学史上最初の解剖学書』は『解体新書」である、と勘違いしているのは、一体どうしたことか・・・・・・ この翻訳の経過は『九州の蘭学 越境と交流―』 出版)の鳥井裕美子氏の解説にくわしく、また翻訳の意義の重さについては、杉本つとむ氏が『長崎通詞』(開拓社言語化叢書)や『長崎通詞ものがたり』(創拓社)などの諸書で詳細に解析している通り、本木良意の翻訳の史実はすでに昭和初年に医学者・小川剣三郎が医学誌に発表して医学界に知られていた。さらに昭和一八年にも古賀十二郎が『西洋医術伝来史』(日新書院)でくわしく発表していた。にもかかわらず、報道界・出版界と教科書がこの偉業を無視してきたわけである。 本木良意が翻訳に用いたレムメリンの原本(一六一三年初版)はラテン語の『ビナクス・ミクロコスモグラフィクス』 (『小宇宙図鑑』)という書で、各国語に訳されて一〇〇年以上も版を重ねた名著であった。一八八頁の図に見られる通り、 観音開きになった人体の胸や腹を、皮膚から一枚ずつめくってゆくと、その下から筋肉、内臓、骨格が次々に現われ、臓器や筋肉の配置と深さが分るという、立体的な人体折り畳み図から成っていた。原本は銅版画で、体の最も深い部分まで、 一二〇枚もの絵が細密画によって出てくるものであった。これをユスツス・フラチアーヌスが一六六七年にオランダ語に訳して『人体解剖』として刊行されたものを、それからわずか一五年後に本木良意が重訳したのである。訳語は、当時の日本にまったくない医学用語を本木良意が創造しなければならなかったので、彼は人体の機能に従って次々と言葉を創り出した。その結果、小腸・大腸という言葉を生み出し、鼓膜を「太鼓の音する薄皮」、十二指腸は「指十二幅腸」、盲腸は「盲目腸」と訳し、眼の水晶体は「ビイドロ(ガラス)のごとくにて水気あり」など、ここに初めてわが国現代医学用語の基礎が築かれ、それまでの体験的な医術から、学問的な解剖学へと進む画期的な第一歩が踏み出されたのである。 勿論、現代医学の知識から見れば、本木良意の翻訳内容には間違いもあったので、その重箱の隅をつつくような誤記の発見をもって彼の大業を無視しようとする輩もいるが、それを言うなら、残念ながら「解体新書」も同じである。『洋学史論考』(佐藤昌介著、思文閣出版)が『解体新書』の訳文の正確さを調べたところ、検証した全四二項目のうち正解は一四項目だけ、というほど誤訳が多かったので、玄白の高弟・大槻玄沢が蘭学者の力を結集して大幅に誤りを正した改訂版を完成し、ようやく五二年後の一八二六年に「重訂解体新書』として刊行しているのである。ニュートンの万有引力の法則でさえ、現在では「古典力学」という名で呼ばれ、 厳密には物理法則の首座を「量子力学」に譲っているが、だからといってケプラーやガリレオ、ニュートンの偉業はまったく色あせていない。すべての学問は新知識によって絶えず修正され、進歩するものであるから、やはり日本の解剖学書の翻訳第一人者が本木良意だったことに間違いはない。
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使い方わからん
@lsdoyp
2 days ago
? 「通詞」というワードすら出てこない、「何も知らない人間たち」に閉口した。 通詞は、 自然現象を考察し、コペルニクス、 ス、ケプラー、ガリレイ、ニュートン、リンネたちが切り拓いた、ありとあらゆる最先端の科学・医学・生物学を究めたわが国最高の学者集団であった。 すべては、 幕末よりはるか前、江戸幕府が興される前、一五七一年(元亀二年四月四日)に、ポルトガル人に対して長崎が開港された日から紡ぎ出された長い南蛮織物が、「文明開化」の絢爛たる元の絵図だったのである。 畑仕事に芋づる式という言葉がある通り、この知恵の伝承・伝播が芋づる式につながって、たった今の日本の技術と科学が存在しているのだ。その芋を最初に畑に植えた長崎の人を知らないのが現代人であれば、文明開化のいわれを知らないのも道理だと、墓の下の先人から笑われる。
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産経ニュース
@Sankei_news
6 days ago
<産経抄>ノーベル賞受賞者が多いのは、日本語のおかげ https://t.co/3kQxJ6tRrg なぜ、日本人のノーベル賞受賞者が多いのか。学問を日本語で学べるからだ。平成12年にノーベル化学賞を受賞し、先月24日に90歳で亡くなった白川英樹さんはそう考えていた。
使い方わからん
@lsdoyp
2 days ago
通詞は、 自然現象を考察し、コペルニクス、 ス、ケプラー、ガリレイ、ニュートン、リンネたちが切り拓いた、ありとあらゆる最先端の科学・医学・生物学を究めたわが国最高の学者集団であった。 すべては、 幕末よりはるか前、江戸幕府が興される前、一五七一年(元亀二年四月四日)に、ポルトガル人に対して長崎が開港された日から紡ぎ出された長い南蛮織物が、「文明開化」の絢爛たる元の絵図だったのである。 畑仕事に芋づる式という言葉がある通り、この知恵の伝承・伝播が芋づる式につながって、たった今の日本の技術と科学が存在しているのだ。その芋を最初に畑に植えた長崎の人を知らないのが現代人であれば、文明開化のいわれを知らないのも道理だと、墓の下の先人から笑われる。
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使い方わからん
@lsdoyp
3 days ago
志筑忠雄すら出てない 重力という言葉を作った男 日本は科学をどう受け入れたか? 「江戸時代唯一の国際的な業績」とも評せられる偉大な成果を残した。しかし、それらの成果は、あまりにも時代に先行しすぎていたせいか、ほとんど理解されることなく、 歴史のなかに埋もれつつある。 いまだ「科学」という言葉すら存在しなかった江戸時代後期の日本。近代西洋科学的な考え方が普及していない社会状況の中で、「重力」「引力」 「遠心力」「真空」といった科学用語を翻訳という作業を通じて生み出した人物がいた。「江戸時代、唯一の国際的な科学業績」とも評せられる彼の行跡を探ることで、近代西洋科学がどのようにして日本へもたらされ、日本がどのように受け入れていったのか、その謎に迫る。 西洋知識はいかにしてもたらされたか? 江戸時代後期、西洋で生まれた様々な知識が、日本へもたされるようになった。この時に、現在私たちが日常生活でもよく使う様々な科学用語 (「惑星」「重力」 「引力」など)も知識として伝来してきたのだが、問題はどのようにして文字や漢字や仮名などを当て込んだのか。その困が重要な作業を改めて追った。 翻訳者としての通詞 江戸時代の日本は諸外国との交流を断つ「鎖国」 体制を敷いていたために、外国からの知識や情報が入ってくるのは長崎の「出島」に限定されていた。その出島において、海外からの情報を翻訳する作業を受け持っていたのが「通詞」と呼ばれる人々であった。その通詞の中で一際、偉才を放っていたのが志筑忠雄と呼ばれるオランダ通詞であった。彼こそが「重力」 「引力」 「遠心力」などの科学用語を生み出した人物なのだ。 謎多き志筑忠雄 志筑は、科学用語のみならず様々な西洋書物の翻訳という作業を通し、次々と日本語を生み出す。 それだけにとどまらず、当時の西洋科学に引けを的に研究するなど、「江戸時代唯一の国際的な業績」とも評せられる偉大な成果を残した。しかし、それらの成果は、あまりにも時代に先行しすぎていたせいか、ほとんど理解されることなく、 歴史のなかに埋もれつつある。現に、彼の生涯は今でも多くの謎に包まれたままなのだ。そんな謎多き志筑忠雄の業績を辿ることでみえてくる、日本における近代西洋科学の受容とそれがもたらした社会の変化に迫る。 主な取材先 岡田至〇(龍谷大学) 鳥井裕美〇(大分大学) 笹原宏〇(早稲田大学) 野家啓〇(東北大学)
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産経ニュース
@Sankei_news
6 days ago
<産経抄>ノーベル賞受賞者が多いのは、日本語のおかげ https://t.co/3kQxJ6tRrg なぜ、日本人のノーベル賞受賞者が多いのか。学問を日本語で学べるからだ。平成12年にノーベル化学賞を受賞し、先月24日に90歳で亡くなった白川英樹さんはそう考えていた。
使い方わからん
@lsdoyp
3 days ago
ここに群がってる罪のない方々、何故君たちは揃いも揃って「長崎通詞」「蘭学者」無視してんの?わざとやってる? 啓蒙 「長崎の出島のオランダ人を通じて、オランダ語で伝えられた、いわゆる蘭学と呼ばれる学問。これをもっとも早くから本格的にやっていたのが天文学でした。通常は医学が日本に最初に導入されたように思われがちですが(杉田玄白の『解体新書』の物語が有名だからだと思います)、実は天文学者がいちはやくオランダの学問を取り入れて唇をつくったり、月食や日食などを予言したりしていたのです。ニュートン力学の体系を支える近代的な数学もこのとき導入されます。西欧的な初歩数学の知識も少ないのに、ニュートンの物理学や天文学の概念を翻訳するのはさぞかし大変だっただろうと感心しますが、本木良永や志筑忠雄など、オランダ通訳職 (長崎通詞)には、非常に能力の高い人がいたわけです。その後、医学、薬学、植物学などに、オランダ学が波及していきます。この基礎科学のネゴシエーションの時期が長く、学問的にも十分成熟していたことは、日本の文化史上、特筆すべきことでしょう。1868年の明治維新の時期には、近代化への離陸のための十分な準備ができていたと考えられます。日本は明治維新で突然近代化したのではない。つまり、長く深い蘭学の伝統のなかで、ヨーロッパの学問を本格的に検討してきた歴史の積み上げがあったのです。そのなかで、化学や物理学など、当時の日本の伝統的学問とは全く異なる体系を持つヨーロッパの基礎科学の基礎概念やその用語が理解できていたために、応用技術である製鉄所の建設や火薬の開発なども、比較的短時間のうちに可能だったと考えていいでしょう。ヨーロッパ基礎科学の受容のために最も重要だと考えられるのは、 日本語の科学技術の言葉、つまり日本語でのテクニカル・タームとキーコンセプトの体系をつくることです。それらはほとんど、江戸時代の蘭学者がつくってきたものです。オランダ語を翻訳しながら解釈していくということ、これは大変な知的作業で、江戸時代からの長い準備期間が、その後の近代国家としての日本の離陸(テイク・オフ)に役立っていたのです。」 (『実学としての科学史(2)』塚原東吾,神戸大学教授
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産経ニュース
@Sankei_news
6 days ago
<産経抄>ノーベル賞受賞者が多いのは、日本語のおかげ https://t.co/3kQxJ6tRrg なぜ、日本人のノーベル賞受賞者が多いのか。学問を日本語で学べるからだ。平成12年にノーベル化学賞を受賞し、先月24日に90歳で亡くなった白川英樹さんはそう考えていた。
使い方わからん
@lsdoyp
3 days ago
ほとんどの日本人が日本医学史上最初の解剖学書』は『解体新書」である、と勘違いしているのは、一体どうしたことか・・・・・・ レムメリンの解剖学書の翻訳を手がけていた本木良意が燃えるような熱意をもって、執拗にライネに質問をくり返し、日本人にとってまったく未熟な解剖医学の知識を吸収しようと努めたのである。解剖学書の入手から九年後の一六八二年(天和二年四月)、ついに大通詞・本木良意が“日本人による最初の人体解剖図書の翻訳を完成”したのだ。ニュートンの万有引力の発表に先立つ五年前、という早い時代であった。本木は原書の意を取り違えぬよう、たびたびオランダ商館医と相談しながら、 正確に翻訳を終えて、これを長崎奉行に納め、稲葉正則に献上した。同書は『阿蘭陀経絡筋脈臓腑図解』、『阿蘭陀経絡図』、『紅毛銅人形図』などの題で呼ばれ、解剖図と説明書のオランダけいらくけいらく二冊から成っていた。訳書の題に使われている経絡という言葉は、漢方医学における鍼灸や温熱療法などのツボの源を説明する大切な概念で、体内に張りめぐらされている、現代風に言えば神経の通り道のようなものを意味する言葉だったから、そのような「体内のメカニズム」の意味をこめて訳書が名づけられたものであろう。西洋医学が発達した現代に、 病気を、解剖外科学と西洋的な化学医薬品一辺倒だけでは治根できないとして、ハリ麻酔や良導絡療法をはじめ、内科・外科とも、この経絡がますます注目されていることは、 読者ご存知の通りである。本木良意がこの翻訳を完了した一八八二年は、杉田玄白らの『解体新書』が発刊された一七七四年(安永三年)に先立つほぼ一世紀、九二年も前の大いな医学の離れ業であった。ほとんどの日本人が日本医学史上最初の解剖学書』は『解体新書」である、と勘違いしているのは、一体どうしたことか・・・・・・ この翻訳の経過は『九州の蘭学 越境と交流―』 出版)の鳥井裕美子氏の解説にくわしく、また翻訳の意義の重さについては、杉本つとむ氏が『長崎通詞』(開拓社言語化叢書)や『長崎通詞ものがたり』(創拓社)などの諸書で詳細に解析している通り、本木良意の翻訳の史実はすでに昭和初年に医学者・小川剣三郎が医学誌に発表して医学界に知られていた。さらに昭和一八年にも古賀十二郎が『西洋医術伝来史』(日新書院)でくわしく発表していた。にもかかわらず、報道界・出版界と教科書がこの偉業を無視してきたわけである。 本木良意が翻訳に用いたレムメリンの原本(一六一三年初版)はラテン語の『ビナクス・ミクロコスモグラフィクス』 (『小宇宙図鑑』)という書で、各国語に訳されて一〇〇年以上も版を重ねた名著であった。一八八頁の図に見られる通り、 観音開きになった人体の胸や腹を、皮膚から一枚ずつめくってゆくと、その下から筋肉、内臓、骨格が次々に現われ、臓器や筋肉の配置と深さが分るという、立体的な人体折り畳み図から成っていた。原本は銅版画で、体の最も深い部分まで、 一二〇枚もの絵が細密画によって出てくるものであった。これをユスツス・フラチアーヌスが一六六七年にオランダ語に訳して『人体解剖』として刊行されたものを、それからわずか一五年後に本木良意が重訳したのである。訳語は、当時の日本にまったくない医学用語を本木良意が創造しなければならなかったので、彼は人体の機能に従って次々と言葉を創り出した。その結果、小腸・大腸という言葉を生み出し、鼓膜を「太鼓の音する薄皮」、十二指腸は「指十二幅腸」、盲腸は「盲目腸」と訳し、眼の水晶体は「ビイドロ(ガラス)のごとくにて水気あり」など、ここに初めてわが国現代医学用語の基礎が築かれ、それまでの体験的な医術から、学問的な解剖学へと進む画期的な第一歩が踏み出されたのである。 勿論、現代医学の知識から見れば、本木良意の翻訳内容には間違いもあったので、その重箱の隅をつつくような誤記の発見をもって彼の大業を無視しようとする輩もいるが、それを言うなら、残念ながら「解体新書」も同じである。『洋学史論考』(佐藤昌介著、思文閣出版)が『解体新書』の訳文の正確さを調べたところ、検証した全四二項目のうち正解は一四項目だけ、というほど誤訳が多かったので、玄白の高弟・大槻支沢が蘭学者の力を結集して大幅に誤りを正した改訂版を完成し、ようやく五二年後の一八二六年に「重訂解体新書』として刊行しているのである。ニュートンの万有引力の法則でさえ、現在では「古典力学」という名で呼ばれ、 厳密には物理法則の首座を「量子力学」に譲っているが、だからといってケブラーやガリレオ、ニュートンの偉業はまったく色あせていない。すべての学問は新知識によって絶えず修正され、進歩するものであるから、やはり日本の解剖学書の翻訳第一人者が本木良意だったことに間違いはない。
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使い方わからん
@lsdoyp
3 days ago
シーボルトの通訳をつとめた吉雄忠次郎 (吉雄耕牛の弟の孫)も、急逝した馬場佐十郎の後任として天文台の翻訳方をつとめ、権之助と並ぶ二雄と称された俊才で、鳴滝塾生を指導した。彼らが、鳴滝塾で多くのシーボルトの門弟に天文・勝算・数学を教え、鳴滝竜塾初代塾頭となる美馬願三たちを指導して英才に育てあげたのである。そして塾頭の美馬順三と、岡研介らが日々の門弟指導をおこなった。 シーボルトはこうして有能な通詞のほか、画才に卓抜した腕を持つ絵師・川原慶賀の協力を得て、日本の動植物・地理・ 歴史・言語の研究に没頭することができた。京都丹後生まれで現在の京都大学医学部の土台を築いた新宮涼庭はシーポルトの門弟ではなかったが、彼も長崎に赴いて吉雄権之助に師事し、オランダ語を徹底的に学び、末次忠助にも師事してその蘭学を大成した人物である。 こうしてすぐれた通詞、町年寄、出島乙名たちに囲まれた幸運なシーボルトは、出島から通って診療と臨床講義を実施しながら、門弟に西洋医学と自然科学を講義したのだが、それはただの医学教育ではなかった。実地に診療もおこない、 薬物に関連づけて、まだ日本でまったく知られていない化学について指導した。このことが、高野長英たちに自ら科学や元素の「原理を考えさせる」大きなヒントの踏み台となり、 後年の俊才、自らの頭でこの世の原理を追究する真の科学者を生み出したのである。それにより人体の生理学や蘭方医術が大きく進み、日本人が種痘法に目を開くことにも至った。 この蘭学隆盛の流れの中から、シーボルトの鳴滝塾を設立するのに力を尽くした高島秋帆は、種子島以来の砲術師から先へ進んで、洋式砲術を究めようとした。伊東玄朴は佐賀藩主・鍋島閑叟の娘に種痘を施して、ついにその成功に導く。 シーボルトの著書の翻訳に取り組んだ青地林宗は、理学の道を究めて、日本に物理学の体系を確立してゆく。江戸参府したシーボルトに西洋学衛について質疑した宇田川榕庵は百科学の翻訳から入って植物学と化学に太い道を拓いていった。 尾張名古屋藩の伊藤圭介も植物学より入ってリンネの分類法を紹介し、わが国における食糧飢饉対策の実用書を生み出す。 戸塚静海は外科学に、高野長英は生理学に取り組んだ。日野黒哉は京都に種痘を普及して多くの人を救った。その多くが幕末維新時代の科学文化発展の担い手となった。だが改めて記しておくが、右腕・吉雄権之助の才能あって初めて、シーボルトの数々の偉業が成ったのである。 みたいな?
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使い方わからん
@lsdoyp
4 days ago
@kingbiscuitSIU
なんて君たちは「長崎」無視してんの? 出島というピンホールから流れ出た西欧の科学技術 「日本は明治維新で突然近代化したのではない。つまり、長く深い蘭学の伝統のなかで、ヨーロッパの学問を本格的に検討してきた歴史の積み上げがあった。」(『実学としての科学史(2)』塚原東吾,神戸大学教授
使い方わからん
@lsdoyp
7 days ago
@roast_beef_pjs
下村修 名古屋大学がなければ、緑色蛍光たんぱく質(GFP)を発見できなかった。GFPは、細胞を生きたまま観察するための「光る目印」として活用され、難病治療のための新薬開発などに大きく貢献した みたいな?
使い方わからん
@lsdoyp
7 days ago
@awudjp
世界初の土星型原子モデル提唱者・ 長岡半太郎 日本の物理学の黎明期に、独創的な発想で世界レベルの研究を成した科学者がいた。しかし、日本の学会の保守的な風土や長岡自身の消極的な姿勢もあってそれ以上の発展はなく、冒頭のボーアやラザフォードに手柄を奪われてしまう結果となったのである。
使い方わからん
@lsdoyp
7 days ago
@awudjp
「長岡半太郎の原子の土星型モデル」は、古典的な原子モデルです ね。」などと、判ったような事言って教壇に立っている人のうち 、実際長岡の著書の解説を理解できる人はどれだけいるやらw
古川哲嗣
@tetsushi_jp
almost 11 years ago
「長岡半太郎の原子の土星型モデル」は、古典的な原子モデルです ね。」などと、判ったような事言って教壇に立っている人のうち 、実際長岡の著書の解説を理解できる人はどれだけいるやらw
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