次のようにポストした人がいました。
「refer toを1つの動詞と捉えれば『SVOasCの形をとる⑤の他動詞』と考えることができて、このほうが『基本的意味』という概念を導入できて理解しやすい、という薬袋先生からの独自の『提案』なのだと思います。」
これに対して、私は「独自の『提案』などではありません。どんな文法書、辞書もこのように扱います」と口を挟みました。
すると「『どんな文法書、辞書もこのように扱います』って本当ですか?こんなこと書いてある本、見たことないですけど」って反論する人がいる。
この反論は非常に重要です。Good question!と言ってよい。いったい何が起こっているのか、詳しく説明しましょう。
先日、以下のポストをしました。
辞書はlistenを自動詞にしている(ジーニアス英和辞典もそうです)。ところが、ジーニアス英和辞典はlistenの使い方として[S V to O doing / S V to O do]を表示して、次の2つの例文を出している。
I listened to him singing.(私は彼が歌っているのを聞いた)
I listened to him sing.(私は彼が歌うのを聞いた)
これを「listen = 自動詞 / to=前置詞」で説明できますか?これは「listen to」を「1つの他動詞」として扱うから、成立する英文です。
詳しく言うと「listened toが不完全他動詞(⑤)、himが動詞の目的語、singingが現在分詞形容詞用法で補語、singが原形不定詞で補語」です。
それでは、なぜジーニアスは「listen:自動詞」とは別に「listen to:他動詞」という項目を立てて、そこに[S V O doing / S V O do]と表示して、I listened to him singing.とI listened to him sing.を出さないのか?
それは「listen toは『自動詞+前置詞』だ。だからlistenには『自動詞」しか出さない。でもlisten toを『他動詞』として使うことがある。この辞書を使う人は、必要があればlisten toを他動詞にして考えてね。それくらいのことは柔軟にできるでしょ」と考えているからです。
わかりますか?これが、私が「どんな文法書、辞書もこのように扱います」と言った意味です。つまり、どんな文法書、辞書もこのように扱うのですが、扱うだけで、そのメカニズムを説明しないのです。辞書は「そのくらいのことはいちいち言わなくてもわかるでしょ。わからなければ、辞書を使いこなすことなどできませんよ」と言っているのです。
それではジーニアス英和辞典でreferを見てみましょう。referを自動詞と表示して、そこに、SV to O as C〈人が〉O〈人・物・事〉をCと言う、呼ぶ《(1)Cは名詞. (2)mentionより堅い語. (3)受身可》という情報を出し、The Big Dipper is referred to as the Great Bear.(北斗七星は大熊座と呼ばれる)という例文を載せています。
これが、私が「どんな文法書、辞書もこのように扱います」と言った個所です。
たとえば「(2)mentionより堅い語」って書いてありますね。それでは、mentionを調べると、自動詞って出ていますか?mention to Oって言い方、出ていますか?出ていませんよね。mentionは他動詞しか出ていません。このことから、refer toを「1つの他動詞」として扱って「mentionより堅い語」と言ったことがわかります。
それから「(3)受身可」はどうですか?referは自動詞なんでしょ?自動詞が「受身可」なんですか?そんなわけないですよね。このことからも、refer toを「1つの他動詞」として扱って「受身可」と言ったことがわかります。
The Big Dipper is referred to as the Great Bear.という例文を見れば、refer toを「1つの他動詞」として扱っていることは明らかではありませんか。このように捉えなければ(=referを自動詞と捉えたら)この英文は構造的に成立しないからです。
でも、このようなことは一切説明がない。自動詞と表示して、自動詞のところに、しれっと、「自動詞+前置詞」を他動詞として扱う例文を「ただ提示している」のです。
ここではジーニアス英和辞典を例にとって説明しましたが、文法書も基本的に同じです。このようなことは、基本的に、いちいち説明しないのです。
もうお分かりですよね。「『どんな文法書、辞書もこのように扱います』って本当ですか?こんなこと書いてある本、見たことないですけど」って反論する人は、こういう「辞書や文法書が当然の前提にしていること」を身につけていないので、「こんなこと書いてある本、見たことない」と言っているのです。
ここから先は、いつもいつも言っていることです。『黄リー教』は、この「辞書や文法書が当然の前提にしていること」を「当然の前提」にせず、このメカニズムを最初歩から詳しく説明し、読者に徹底的に練習させて、身につけさせようとしているのです。ですから、『黄リー教』をきちんとやった人は異口同音に「辞書や文法書に書いてあることが分かるようになった」と言うのです。
話がそれました。『黄リー教』に書いてあることは、「(薬袋の)独自の提案」などではありません。辞書や文法書が「当然の前提」にしてしまって、言及しないので、きちんと言語化している私の説明が「(薬袋の)独自の提案」に見えるだけです。
ですから、『黄リー教』をやってF.o.R.を身につけると、「『黄リー教』には『当たり前のこと』しか書いてない。『黄リー教』の独自性は、『当たり前のこと』を分かっていない人に『当たり前のこと』を分からせる『工夫』の部分にあるのだ」ということが分かってくるのです。