ANCHOR OF SOLACE
第33話 HAPPY TOGETHER
…to get the full value of a joy you must have somebody to divide it with.
喜びを十分に味わうには、
それを分かち合う誰かが必要なのだ。
— Mark Twain, Following the Equator
写真を覗き込んでいた倫が、咲へ顔を上げた。
「陽子も私と同じで、カラオケが苦手だったんだよね」
倫は写真へ目を戻した。
「陽子も私も避けてたし……」
咲はうなずき、写真を見る倫に言い添えた。
「今も苦手だよ。でも、無理に連れてったわけじゃないからね」
「いやいや、そんなふうに思ってないよ」
咲がスマートフォンを手元へ戻しかけたところで、倫が続けた。
「……え、やっぱり無理に連れてったの?」
「そんなことないって!」
咲の返事に倫が笑い出すと、咲も笑いながらもう一度写真を向けた。
「分かってるよ。でも、陽子、歌うの?」
「一曲だけ、歌えるんだよ」
「そうなの?」
倫は思わず写真から顔を上げ、咲を見た。
「うん。最初は途中でやめちゃったりしてたけど、今はちゃんと最後まで」
倫は咲の話を聞きながら写真の陽子へ目を戻し、口元を緩めた。
「そうなんだ……」
倫は、画面の中で咲と並んでピースをする陽子を見ていた。二人が黙ると、さっきまで窓を叩いていた雨音も、ほとんど聞こえなくなっている。
窓へ目を向けた倫に、咲が声をかけた。
「りっちゃんは、向こうでカラオケやらなかったの?」
「うーん。打ち上げとか、パーティーで誘われたけどね。私は断ってたんだよね」
答えながら咲へ顔を戻した倫は、もう一度写真を覗き込んだ。
「で、陽子は何歌ったの?」
咲が曲を教えると、倫は顔を上げた。
「渋いね!」
咲は声を弾ませた倫につられて笑い、写真を向けたまま話を続けた。
「二十年以上前に流行った曲なんだけど、今でもすごく耳に残ってるんだって。それで、その一曲は歌えるようになったみたい」
「へえ……」
「私がいない間に、本当、いろいろ変わるもんだね」
倫は咲を見たまま続けた。
「陽子も、さっちゃんも」
自分の名前まで出て、咲は倫を見返した。
��私も?」
問い返す咲に、倫は目を合わせたままうなずいた。
「うん。こうして話してても、いろんなとこで感じるよ」
「え、どういうとこ?」
咲が返事を待っていると、倫はその顔を見ながら口元を緩めた。
「それは秘密」
「何それ!」
咲が笑いながら言い返すと、倫も笑ってから言葉を継いだ。
「でも、陽子の影響はあると思うよ。陽子も、さっちゃんの影響を受けてるんだろうね。……悪い意味じゃないよ」
「分かってるよ」
倫はテーブルの白いスマートフォンを取りながら、咲が向けている写真に目を戻した。
「ねえ、さっちゃん。この写真、私にもくれない? さっきの陽子の写真と交換しようよ」
咲の口元がほころび、倫を見返すうちに笑みが広がっていった。
「いいよ! 私もあの写真欲しい」
咲が画面を自分へ向け直すと、倫も手元へ目を落とした。
写真を送り合う間は会話も途切れ、やがて倫の画面には、並んでピースをする陽子と咲が、咲の画面には、倫から届いた陽子の写真が映った。
倫が顔を上げると、咲も画面から目を上げた。
「いいね」
「うん」
写真を送り終えても話は続き、咲と笑い合っていた倫が、ふと時計を見上げた。
「あ、もう四時ちょっとか」
咲もつられて時計を見上げた。
「本当だ……早いね」
「ずいぶん話し込んじゃったね。……夢の話、途中だったね」
倫がそう言って時計から目を戻すと、咲もうなずいた。
「じゃあ、さっちゃん。続き、しようか」
Two photographs, and a smile on each of their faces.
二枚の写真を前に、二人の顔にも笑みが浮かんでいた。
ANCHOR OF SOLACE
第31話 WORLD IS NOT ENOUGH(前編)
That it will never come again
Is what makes life so sweet.
二度と訪れないからこそ、人生はこれほど愛おしい。
— Emily Dickinson
「そうだな……」
倫は、陽子の眠る寝室の方へもう一度ちらりと目を向けた。
開いた扉の奥に、陽子の姿は見えない。
きっかけ、か……。
ほかにも聞き方はあっただろうに。
さっちゃんも、言葉を選んでるんだな。
こういうところ、陽子に似たのかな。
丸テーブルの向こうへ目を戻すと、咲は倫を見ていた。
「あっちでバーテンダーとして働いてたのは、最初の一年ぐらいだったんだよね。お店で話してた時も言ってたでしょ。私、誰かの下で働くの、向いてないって」
「彼女に会うまでは、私も誰かの下で働くつもりはなかったんだよね。筋が通ってないとか、明らかにそれはおかしいだろってことを、惰性で続けるのが嫌でさ。どこがおかしいのか、うまく説明できない時もあるんだけど。そのまま合わせて働く気に��なれなかったんだよね」
「でも、彼女に出会って初めて、この人のもとでなら働いてもいいって思ったんだ」
倫は言葉を切った。
雨はまだ��を打っている。咲は問いを挟まず、その先を待っていた。
「彼女は私を、部下っていうより、対等な相手として見てくれた。周りの人たちも同じだったよ。とは言っても、厳しかったけどね。こっちにも同じものを求めてくるんだから」
椅子の背に身体を預けたまま、倫は続けた。
「彼女にも、よく言われたよ。あなたは違和感を見つけられるって。うまく説明できてなくても、ちゃんと引っかかってる。まず、その違和感を感じ取れることが大事なんだって」
「それを人に伝えるのは難しいから、その方法も教えるって言ってくれたんだよね。人と接する時に、どういうところを見たらいいかも教わったよ」
「そういうことまで教わってたんだ」
咲の言葉に、倫はうなずいた。
「本当に大変だったよ。投資の知識なんてなかったし、業��の言葉も分からない。分からないことが出てくるたびに調べてた」
「あの頃は、家に帰る方が少なかったよ。ずっと彼女のいる仕事場で、調べたり、話をしたりしてた。寝る間も惜しんで働くって、多分こういうことなんだろうなって思ったよ」
咲がうなずくのを見て、倫は続けた。
「でも、幸いだったのは、そこには二十四時間、必ず誰かがいたことなんだよね。その人たちにアドバイスをもらったり、話を聞いたり。そうやって、いろんなことを覚えていけたんだよ。環境に恵まれたのもあるよ」
「みんなの期待に応えたくて、毎日、必死だった。でも、すごく……なんていうか、やりがいも感じてたんだよ」
倫はそこで少し考えた。
「共同パートナーに誘われたのは、こっちに戻ってくる少し前かな。彼女の方から言ってくれたんだ」
「彼女の方から?」
咲が聞き返すと、倫はうなずいた。
「うん。私も、すぐ返事したよ」
倫は椅子の背に預けていた身体を起こした。
「仕事は順調だったし、毎日、充実してたよ。でも、それで��、何か引っかかってたんだよね。自分でも、何なのか分からなくて。……満たされないっていうのかな」
倫は一度口を閉じた。
「彼女のことは、友達みたいにも感じてたんだよね。向こうもはっきり言ってくれたよ。私のことは友人だって。ほかの人には言わないけど、って付け加えてね」
「その彼女にも言われたんだ。お金も十分手に入った。私たちの手で、いろんな事業がまた動き始めて、それで救われた人もたくさんいるって。世界全部とは言わないけど、小さな世界を手に入れたようなものだと思うわ、って」
そこまで話して、倫は黙った。
二人の声がなくなると、雨音の間に冷蔵庫の低い音が聞こえた。
ブーン……。
「……そう言われても、いつも返事ができなかったんだよね」
「ある時さ、クラウドに入れっぱなしのデータを整理してたんだよ。いらないものを消してたら、写真が出てきたの。……陽子の」
倫は白いスマートフォンを取り出し、画面へ目を落とした。咲へ話を続けながら、親指で写真を探していく。
「ずっと見てなかった写真だった。まだ、私がさっちゃんと知り合う前のね。私が休みの日、二人でよく遊びに行ってたんだよね。その時に撮ったやつでさ」
倫の目が、開いた寝室の扉へ動いた。
「本当に……いい笑顔なんだよね」
倫は目当ての一枚を開くと、テーブル越しに咲へ画面を向けた。
In that photograph, Yoko was still smiling at Rin.
その写真の中で、陽子は今も倫に微笑みかけていた。
ANCHOR OF SOLACE
第28話 父の祈りを(後編)
Prayer is the little implement
Through which men reach
Where presence is denied them.
— Emily Dickinson
波が引いていく音が小さくなっても、陽子から返事はなかった。
一人分空いた座面の向こうでは、海風に持ち上がった長い髪が頬や首元へ戻り、また風になびいている。
赤い箱から煙草を一本抜き、箱と一緒に出てきたライターで火をつけた。くわえた先が赤く灯るまで吸い込み、口元から離して、ひと呼吸置いてから煙を吐く。
白い煙が細く伸びてベンチの後ろへ流れていく間も、陽子は海を見ていた。
沖から来た波が濡れた砂へ広がり、引いていく音を聞きながら、もう一息吸った。
煙草を持つ手を下ろしてから吐いた煙が、今度は二人の間を横切る。
風向きが変わり、陽子の方へかかっていた。
それでも顔を背ける様子はなく、以前ならすぐに聞こえた声を思い出した。
「お父さん、やめてよ」
煙が少しでも陽子の方へ流れると、何度そう言われたか分からない。今は目の前を煙が通り過ぎても、黙って座っている。
「なあ……お前、煙草の匂い、嫌いやったか?」
「嫌いだと思ったことはないよ」
「そうか……」
本当にそうなのか、こちらへ合わせただけなのか。その横顔を見ても分からず、煙草をもう一度口へ運んだ。
……今は、もう言わんのか。
親元を離れた子は、帰ってくるたびに変わるものなのかもしれない。
少し見ないうちに髪が伸び、顔つきが変わり、前なら言っていたことを言わなくなる。
こちらが見ていなかった時間の分だけ、知っている娘の中に、知らないところが少しずつ増えていく。
「まあ……」
海へ目を戻し、煙草を指に挟んだまま、言葉を探すように小さく続けた。
「お前が何歳になっても……俺には娘だからな」
正面で波が崩れ、白い泡が濡れた砂の上へ押し寄せた。
ざあっ……。
引いていく水が砂を擦る音を残し、二人の間の煙も、陽子の髪をなびかせる風にほどけていった。
一息。少し間を置いて、もう一息。
陽子はほとんど話さず、こちらもそれ以上は聞かずに、煙草を吸いながら海を眺めていた。
視界の端では長い髪が風になびき、煙を吐いてはまた煙草を口へ運ぶうちに、赤くなる火が少しずつ口元へ近づいてきた。
短くなった煙草を最後にもう一度だけ吸い、手のひらに収まる円筒の携帯灰皿の底へ押しつけた。
赤い火と細い煙が消えるのを見て蓋を閉じても、指にはまだ煙草の匂いが残っていた。
「よし、じゃあ家に戻るか���
ベンチから立ち上がると、少し遅れて隣でも衣服が擦れ、陽子の靴が砂を踏む音がした。
海を背に歩き始めると、その足音も後ろからついてきたので、前を向いたまま声をかけた。
「陽子。……いつでも帰ってきてええけんの」
「……うん」
波音の間を通って、後ろからその声が届いた。
振り返らずに歩いていると、砂を踏む二人分の音が少しずれて続き、波が崩れるたびに隠れては、また聞こえてくる。
それからはどちらも話さず、海岸を離れるにつれて足元の砂が浅くなり、背後の波音も遠のいていった。
海からの風はまだ背中に当たり、服に残った煙草の匂いを運んでいた。
しばらくそのまま歩いてから、また後ろへ声をかけた。
「本当に……また焼肉でいいんか?」
返ってくる声を待ちながら数歩進んでも、背中には海風が吹きつけ、遠くで波が崩れている。
波に消されたのかと思って足を止め、自分の靴が砂を擦る音のあとに、さっきまで少し遅れていた、もう一つの音が続くのを待った。
「陽子……?」
声と一緒に振り向いた。
風になびくはずの長い髪を探した視線は、何にも遮られないまま、遠くの海まで抜けた。
He had only meant to walk home with her.
父はただ、娘と家へ帰るつもりだった。